青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
↓今からちょうど60年前の今日、1955(昭和30)年1月22日付京都新聞市民版に興味深い記事が載っていました。

S30.1.22KC 京阪六地蔵線計画b

京阪六地蔵線!

山科ではなく、四ノ宮で分岐して、山科盆地を縦断して六地蔵につなげるという計画です。山科で分岐しないと、今の地下鉄東西線同様、後々後悔する結果になりそうですが、やはり山科駅で分岐させるのは、工事の方法や用地の買収の面で難しいという、地下鉄東西線の工事と同じような問題があると判断されていたのでしょうか。

ルートはよく分かりませんが、普通に考えれば今の外環状線に沿うような形でしょう。なお、この当時外環状線は未完成です。

因みに、学研都市線(片町線)と奈良線が向かい合って走っている京田辺-長池間で木津川を渡る新線を作って、六地蔵付近から山科盆地を縦断して山科駅につなげるという計画がある(あった)ようなことを川島令三が書いていますが、もちろん実現していません。湖西線の延長、のようなつもりのようです。

様々な古い新聞記事を見ながら考えると、山科盆地というのは、交通面をはじめ市の施策上翻弄された地域だと思われます。
そもそも山科というのは宇治郡山科町という京都市とは別の自治体で、1931(昭和6)年に京都市と合併した地域であり、主たるバス事業者も中心部と違って京阪バスで、しかも道路網がなかなか整備されないは、東山が立ちはだかってなかなか市街地と一体的に整備が進められないは、京阪バスが市内に乗り入れる見返りなのか、一応市としての責任があると思っているのか、中途半端に市バスが乗り入れて、ますます混沌としていたように見えます。

結局京阪も国鉄も、計画を実現できないまま、山科盆地の中央部から南に鉄道が走るのは、この期待たっぷりの記事から実に40年以上も経った1997(平成9)年の京都市営地下鉄東西線の開通を待たなくてはなりません。
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