青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
DSC_0110.jpg

前回に続き、三井寺です。



↓1956(昭和31)年4月18日付読売新聞滋賀版には、この付近と思われる写真を掲載したこんな記事が。

S31.4.18Y 授業の邪魔をするバス 長等b

まだ仁王門前の駐車場が整備されていなかったのでしょうか。観光バスと言っても、ボンネットバスなんですね!こんなのが1日に300台も来たらそりゃうるさいですね。記事の日付からすると、ちょうど桜の時期の頃に取材したものをまとめたのだと思うので、余計に観光客が多かったことでしょう。

記事中にある「京阪バスの三井寺停留所」というのは、旧大津市内線の、観音堂下にあった三井寺バス停のことだろうと思われます。

地元 石山寺に比べると印象が薄かったのですが、確かに今でも思っていたよりずっと観光客が多くて驚きました。

長等小学校との間の道の石垣からは、新聞記事の時代の当時もあったのでしょうか、桜が華やかな優しい手を学校に差し伸べているかのようです↓

IMG_2609.jpg

旧三井寺バス停から、現在の三井寺バス停につながるこの道筋に、バス路線があったかのように書かれている昭和40年代の地図もありますが、道幅が広いとは言えず、こんなところに観光バスが押し寄せて駐車されたらたまらないだろうな、と思います。

このちょうど半年ほど前の1955(昭和30)年10月20日、台風26号の大雨に遭遇した大阪の池田市立呉服小学校の6年生250名が長等小学校に避難する、という出来事がありました。かれこれ60年経ち、その時の小学校6年生はもう72歳になっていますが、今も長等小学校と呉服小学校の交流は続いているということです。

因みに、この時に児童を四条大宮まで送り届けたのは京阪バスだと長等小学校の公式サイトにも書かれております。

当時は河原町や烏丸の駅はなく、阪急の京都側のターミナルは四条大宮でした。

今は、京阪三井寺駅に近く、大きい駐車場があるこの大門(仁王門)側から入る観光客が多いですが、旧大津市内線の三井寺【旧大津市内線1】の項で取り上げましたように、もともとは観音堂側から入るのが正式なのだそうです。

IMG_1985_201501011235135ba.jpg

↓国宝の金堂は大門側からの方が近いです。

IMG_1978_20140809093722963.jpg

境内の様々な建物の中でも特に堂々としており、檜皮(ひわだ)葺きの屋根のカーブも豊かで絶妙で、いつまで見ていても飽きません。

↓金堂のそばの鐘楼

IMG_1979.jpg

鐘は日本三名鐘のひとつに数えられ、「形の平等院、銘の神護寺、音の三井寺」と言われ、環境省の「残したい 日本の音風景100選」にも選ばれました。

鐘撞(つ)き1回300円、除夜の鐘は1,000円 しっかりしてるわ…

そして、これこそ民話「三井の晩鐘」で有名な鐘です。

大津のある漁師が、美しい娘と知り合って夫婦になったのですが、ふとしたことでその娘が竜の化身だということが分かってしまいます。正体が知れてはもう人間の世界で暮らすことができません。彼女は生まれた子どもを置いて泣く泣く湖に帰りました。
子どもは、母親を恋しがって毎日泣き叫びます。母は自分の目をくりぬいてその子に与え、なめさせると、不思議に泣き止みました。しかし、竜は両方の目を失って盲目となりました。彼女は漁師に、三井寺の鐘をついて、2人が達者でいることを知らせてほしいと頼んだと言います。それが、「三井の晩鐘」なのです(『大津の伝説』大津市産業部観光課 1963 P16-17)。

この鐘を「龍女が仏縁を得て成仏したという由緒のある鐘だから」――つまり先述の「三井の晩鐘」の伝説を踏まえている―――といって僧に止められるのも聞かずに狂ったように撞いた母が、人買いにさらわれて、住職の弟子の少年僧になっていた息子と再会するという話は、謡曲「三井寺」です(『大津の文学』大津市歴史博物館1993 P71-72)

三井寺には、他にも鐘にまつわる伝承がもう2つあります。

有名な弁慶の「ひきずり鐘」伝説は別途取り上げることにして、観音堂の近くのあまり目立たないこちらの鐘楼の鐘の伝承↓

IMG_1929.jpg

IMG_1928.jpg

この鐘は「童子因縁鐘」とも呼ばれ、尾花川の大金持が「子どもが多くて困っているから連れて帰ってくれたらよい」などといって、にべもなく寄進を断ったところ、鐘が出来上がった時に彼の3人の子どもの顔が鐘の表面に浮かび、本当に子ども3人が死んだ、という話です(『大津の伝説』大津市産業部観光課 1963 P15)。

恐らく村人たちが、寺に寄進を渋るとひどい目に遭うぞ、という意味で触れて回った伝承なのではないかと思いますが、肝心の鐘は戦時中に供出されてしまい、現在あるのは2代目のようで、本当に子どもの顔が浮かんでいたのか確かめるすべはありません。
みんな足並みを揃えないと後でつまはじきにされて面倒臭い、という日本人の島国根性というか、農耕民族らしい心性を表しているようにも見えて、仕事上の人間関係やら何やら思い出されて疲れてきます(爆)。

次回も三井寺の話題を続けます。
関連記事
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://contrapunctus.blog103.fc2.com/tb.php/935-1838ddd2
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック