青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
ちょうど60年前の明日、1957(昭和32)年1月9日付京都新聞滋賀版に掲載された、「落穂寮」の記事から。

S32.1.9KS 落穂寮b

「落穂寮」については、新浜 【石山外畑線・宇治交通石山線16‐1】でも取り上げましたが、現在の湖南市に移転するまでは、新浜バス停の南、畑や駐車場などがある辺りにあったようで、バス停名も「落穂寮前」だったらしいことが分かりました。

1998(平成10)年、学校教育法が改正され、記事中にある「精神薄弱」その他の用語はなくなりましたが、それより遥か前の時代であり、現在の目で見ると差別的と思われるような表現もありますが、私の主観が現在の感覚を代表するとは言えませんから原文を保ち、そのままにしております。「火の用心を呼びかけ××る」とある部分は、なぜ伏字になっているのか、何が伏せられているのかも分かりませんが、これもそのままにしています。写真だけは一部加工しました。

叔母夫婦に引き取られたA君(一八)は「白痴」というので真暗な物置小屋に閉じ込められて育ち昨年六月同寮に引き取られる時、陽の光がまぶしくて目を開けることすらできず満足に歩けなかった



戦後10年以上経過しても、まだこんなものです。
身体に障害があるわけでなければどこに行ってしまうか分からないし、受け入れてくれる場所もない、何より近所に知られたくない…そんなことから障害児(者)を閉じ込めるのは、この当時はごく普通のことだったようです。

養護学校(現在の特別支援学校)が義務化されるのは何と1979(昭和54)年と、歴史的に見ればまだまだついこないだの話。養護学校、というものは存在しましたが、それ以前はかなりの子どもが学校教育法第18条によって、就学猶予・免除とされてきました。

それを思うと、別に宣伝しているわけではないのですが、落穂寮というのは何と先駆的な存在なのでしょうか。

今また、新浜付近には大きな時代の変化が訪れようとしています。

↓新浜-岡の平間で

IMG_1126_2017010719183926b.jpg

10月に久しぶりに通りかかった時、いったいこれは何なのだろうと思ったら、国道422号線バイパスの一部なのでした↓

IMG_1133.jpg

瀬田川に入らざるを得ない作業は、水が少ない秋から冬にかけての4か月間しかできず、結構大変な工事のようです。

知人とバス路線への影響を話しましたが、瀬田川の右岸も左岸も同じ会社のエリアならともかく、右岸は帝産、左岸は京阪で、これといった変化はないのではないかという結論で落ち着きました。本当は桜谷なら、石山駅から瀬田川右岸を走って新しい橋を渡り、関津から大石に抜ける方が早いのですが、運賃の体系が全く異なる2社のエリアを出たり入ったりになって、辻褄を合わせるのが大変です。

今となっては信じられないことですが、少なくとも1972(昭和47)年の段階では石山駅から瀬田川左岸を走って、太子・関津峠回りで大石の小田原まで行く帝産バスの路線があったことははっきりしています。その時は今の宮前橋-大石小学校間で京阪バスのエリアと重なり、そこから南は京阪宇治交通のエリアと重なり、どう帳尻を合わせていたのか不思議です。異種運賃だったのでしょうか。
もっとも、会社の縄張りでなく、住民の利便性が一番大事なのですが。


それにしても60年前、落穂寮や近江学園の誰がここに橋が架かることなど想像したでしょう?もちろん、南郷の住民も、毎日食べていくのに精いっぱいでそんなことを考える間もなかったでしょう。
もしかすると当時落穂寮に入っていた方の中でも、年少の方なら――それこそ引用した記事中の「A君」だって当時18歳なら今78歳で、健在でも不思議ではありません。今の景色を見ても、もうそこがかつての落穂寮だとは思い出せないでしょうか。

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