青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。

石山時代の近江学園は、東海道線石山駅でおりて、京阪バス大石行きまたは外畑行きに乗って15分ばかり、近江学園前でおりて、右手の丘の上をめざして200メートルほどのぼったところにあった。交通の便は割によかった。(矢野隆夫「南郷時代」『近江学園創立50周年記念誌 消シテハナラヌ世ノ光』30 「近江学園創立50周年記念誌」編集委員会編 1996)



前回に続いて、岡の平(近江学園前)です。

S47 大津・宇治市街図 近江学園前
(1972(昭和47)年9月 大津・宇治市街図より)

近江学園は、1946(昭和21)年、誰もが食うや食わずの時代の中、町にあふれる戦災孤児や見放された知的障害児(この当時公的な用語では「精神薄弱児」と呼ばれていた)を集めて教育し、世の中で働けるような知識技術、生活習慣を身につけさせ、この子たちも周囲のひとも少しでも幸せになれるようにして送り出そうと考えた糸賀一雄(1914-1968)らが中心となって作った施設です。

もともとは今の湘南学園(平津)のある場所で湘南学園も包括した形で運営しようとしていたようですが、うまくいかず、「雅楽園」という料亭の建物が残っていた岡の平のこの場所が選ばれました↓

雅楽園



糸賀一雄自身は鳥取県の出身で、もともと滋賀県に縁があったわけではありませんが、京大を出て1940(昭和15)年に滋賀県の職員となっていました。
1948(昭和23)年、児童福祉法の施行に伴い、近江学園は全国初の公立の障害児施設となります。

「この子らを世の光に」という誰もが一度は聞いたことがあるのではないか、と思われる糸賀のことばは、障害や病気、家庭環境のハンディを負った子どもたちに施しを与えるのでなく、この子たちこそ主体的に光って、世の中を明るくする役割を担っているのだ、という彼の思想のエッセンスなのだと思います。

『近江学園年報 第11号』(1965)に、近江学園の平面図がありました。そのままコピーしてここにUPすることは、著作権法上の問題があると思われましたので、その図を基に私が作成した図をUPさせて頂きます↓

s-Scan0026.jpg

書き込み忘れてしまいましたが、左が北なので、上の、現在の国道422号線が走っている上側を瀬田川が左から右に流れているということになります。

バス停前から続く坂が、「表坂」と呼ばれています。

IMG_3570_20130127113654.jpg

今のバス停と違って、当時のバス停は小川の橋のたもと、表坂より北の南郷寄りにあったようです。
同年報掲載の図面では道の西側(山側)に「〇 バス停」と書かれているだけだったので、もしかすると石山駅方面しかポールがなかったのかもしれません。

↓現在ならどの辺りになりそうか、写真にポールの絵を描き入れてみました。

IMG_7501.jpg

IMG_7502.jpg

あくまで目安と思って頂きたいですが、図面が正確なら、当たらずとも遠からずだと思います。

年報には、全国各地の大学や自治体からの見学者、実習生の受け入れ記録や出来事が事細かに記されていますが、そうした見学者や実習生の少なからぬ部分が、ここでバスを降りて、表坂を上ったのでしょう。

また、年報には1か月に数回、「△男脱走」「□子連れ戻される」といった「脱走騒ぎ」も記録されています。歩いて脱走する子どもがほとんどかと思いますが、中には歩いていたのではすぐに職員に追いつかれると思って、どこからかお金を手に入れて、バスに飛び乗るような子どももいたかもしれません。…尤も運転手さんも、ここから1人で乗る子どもは要注意と思っていたかな、と思いますが…。

IMG_6392.jpg

某サイトで、
「南郷のローソンの南、バス停があって右手に道の悪い坂道があって」
など、どう考えてもここだとしか思えない景色を描写して、ここを「廃精神病院跡」「心霊スポット」だとし、この坂を上ると、ひとのいないはずの建物の中からひとに睨まれて、交通事故に遭ったとか、脚を切断する目に遭っただとか、ここにマスコミが集まるようなことがあって云々書いているひとがいますが、この際地元の住民としてはっきりと言います。ここは「近江学園」の跡地であって、「精神病院跡」というのは全くの間違いです。

昭和20-30年代、無医村だった南郷(これがまた驚きですが…)の住民の診察を近江学園の医師が受け付けていたということは『復刊 この子らを世の光に』などの文献で明らかですが、「精神病院」どころか「病院」ですらありません。

そもそも「無医村」だから、病院だと考えること自体全くもっておかしいのです。

IMG_6393_20130509230623.jpg
(表坂の上から、田上方面の眺め)


奥には民家が数軒並んでいて、毎日そこの住民が行き来しているのに、住民が交通事故に遭っただとか、不幸な目に遭っただとかいう話を全く聞いたことがありませんし、私も建物がなくなってしまってからではありますが、何度か行っているのにそんなひどい目には遭っていません。

更に奥には、後でご紹介しますが、新浜の石山南郷団地につながる裏道があります。私の同級生はそこの仲の良い友人の家に遊びに行くのに、国道は今のように歩道が整備されておらず、危険だったので、寧ろのこちらの道を通っていたそうです。それから10年20年経った今も、彼は元気にしています。図らずも、いつも貴重な写真を提供して下さっているまんたろうさんも同様のコメントを寄せて下さいました。

sIMG_7467.jpg

因みに、この「マスコミが集まったこともある」というのは、恐らく戦後すぐの頃、不正経理ではないかなどと疑われて、GHQが調査に入る騒ぎになったこと、或いは1961(昭和36)年1月26日に発生した火災のことではないかと思われます。前者は結局そのような事実はないことが分かって終息し、後者はもちろん、福祉施設としてあるまじき重大な過失ですが、死者やけが人は出ませんでした。

1971(昭和46)年9月の石部移転から後、2006(平成18)年頃までの何と約35年間、講堂など建物の一部が放置されていたために、そういう噂が立ってしまったのかもしれません。逆に私は、建物があるうちに見ておけばよかった、取り壊されると分かっているなら行っておいたのに、と後悔しています。

なお、もしその「廃精神病院跡」とやらがここではないということなら、メールフォームやコメントでどこのことなのか、ぜひ私にお知らせ下さい。

取り壊し前の建物は、「大津のかんきょう宝箱」で見ることができます。→近江学園跡地

Yahoo!ロコの航空写真も、建物撤去前らしく、講堂が残っているのがよく分かります。



『復刊 この子らを世の光に』の中に、火災直後、1961(昭和36)年2月14日、ヨーロッパ出張から帰ってきてこの表坂を登る糸賀一雄を、「園長先生が帰ってきた!」と本当にうれしそうな笑顔で子どもたちが出迎える写真が掲載されています。
火災の時、ヨーロッパにいたそうで、今なら園長という立場の人ならすぐに帰ってくるところだろうと思われます。なぜ2週間以上も経ってからの帰国なのか不思議ですが、死者やけが人は出ていないこと、また、海外渡航の自由化(1964年)さえまだである当時の交通事情で、そう簡単にすぐさま帰国するようなことはできなかったということがあるのかもしれません。

子どもたちが本当に嬉しそうにしているので、彼がどれほど慕われていたのかがよく分かります。

右の一番目立つ木の枝ぶりや写真のアングルから考えて、ほぼこの位置だろうと思います↓

IMG_7460.jpg

今はその写真程にはっきりと洗堰は見えません。
50年以上も前の木の枝と今の木の枝が同じなんていうことがあるか?とも思いますが、どう見ても木の雰囲気が変わっていないように思われます。著作権の都合があって、そのままは出せませんので、ご興味がおありの方は図書館等でご確認下さい。

↓坂を登り詰めたところから南の方角に見えるのは、本館、一号館、二号館などが並んでいた土地だと思われます。

IMG_7463.jpg

↓奥に進むと、地蔵堂。これが図中の「お地蔵さん」のことではないかと思います。

IMG_7469.jpg

お地蔵さんの前掛けにはなぜか「畑町自治会」と書かれていたので、地元南郷ではなく、何らかの理由で外畑・内畑のひとが建立したものなのだと思われます。

その地蔵堂の脇から、階段が続いているのが見えますが、この階段こそ、近江学園の各種資料にしばしば登場する「山の家」「望湖亭」につながる階段なのだろうと思います↓

sIMG_7468.jpg

ロープが張られて中に入ることはできませんでした。写真には入っていませんが、シカ、サル、イノシシといった「有害鳥獣」を駆除するという張り紙があり、猟が行われるということでした。


なおも進むと、図面中「あひる谷」とされている農園らしいところを通ります。

IMG_7472.jpg

↓先ほども触れた、新浜(石山南郷団地)につながる道です。木立を抜けると突然新興住宅地に入ります。まばらではあるものの、こんなところでも何軒か家があることに驚きました。

IMG_7471.jpg

図に書き込むのを忘れてしまいましたが、図の右下の端、敷地の南西隅に「惜友の丘」というのがあり、『復刊 この子らを世の光に』によると、不幸にして学園で亡くなった子どもたちの霊を慰める「惜友」と書かれた石碑があったようですが、現在、インターネットで検索してもほとんどそれにつながる情報がなく、現地でも入っていけそうな道はありませんでした。石部移転の時に移されたのでしょうか?

先述の通り、1961(昭和36)年には火事が起きたわけですが、この年は同学園受難の年だったようで、それからわずか半年後の6月28日には、土砂崩れが起きています↓

S36.6.28K2S 近江学園付近で土砂崩れb

右上の写真が、近江学園付近の土砂崩れの写真で、赤い傍線を付しましたが、京阪バスは「立木北口」で折り返し、とあります。これが今の「南郷」なのか「岡の平」なのかがよく分かりませんが、もともと折り返しが設定されているバス停なので、やはり「岡の平」だと考える方が自然だと思われます。ただ、この当時は「近江学園前」という停留所名だったはずで、その点が不思議です。

因みに見出しに大きく出ている「老女圧死」というのは山中町の出来事だそうです。

↓恐らく、新聞記事の写真は、新浜との間の直線、現在のこの辺りを撮影しているのではないかと思います。

IMG_7499.jpg

お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、この辺りで、2008(平成20)年7月と、昨年8月とに土砂崩れが発生しています。
崩れやすい場所は変わらないということでしょうか?

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最初は地元住民とうまくいかないこともあったものの、時を経るにつれ、「学園は南郷の誇り」とまで地元住民に言わしめた(『近江学園年報 第10号』P296-299 1963)近江学園は、用地が手狭になり、1971(昭和46)年9月に甲賀郡石部町、今の湖南市に移転しました。
恐らくそのタイミングで、バス停の名前が「近江学園前」から「岡の平」に変更されたのだと思われます。

糸賀一雄自身はその移転を待たず、1968(昭和43)年9月17日、新入県職員に講演中に持病の心臓発作で倒れ、翌日、文字通り障害児福祉に捧げ尽くす人生を終えました。当時54歳の若さでした。

今、近江学園の痕跡はここまでご覧頂いた皆様にもお分かり頂けたように、少なくとも私が歩いた範囲では残念ながらもはや何も残っていませんでした。

専門外であり、短期間の調査で読んだ文献も僅かで、あまり詳しいことが書けませんでしたが、今は何もないこの丘に、たくさんの子どもたちと職員の汗と涙がしみこみ、今なお日本の障害児福祉・教育に欠くことのできない足跡が残っていることを1人でも多くの方に知って頂けたらと思います。

次は、新浜です。
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コメント
この記事へのコメント
しっかり調査してくださってありがとうございました
小学校の頃、新浜に友達がいて、何度かバスで遊びに行ったことがありますが、岡の平の近江学園は覚えていませんでした。かなり最近まで建物が放置されていたのには驚きました。新浜の辺りにも、当時(25〜30年くらい前)に、火事などで燃えた後と思われるような廃屋?があったように記憶していて、もしかしてあれが近江学園か?とも考えましたが、位置的には違うようだというのも分かりました。
文献など、インターネットではかえって探せないのが多いと思いますが、いつもしっかり丁寧に調べてくださって、ありがとうございます!
2013/05/24(金) 21:51:32 | れお | #pamUQ3n2[ 編集]
Re: しっかり調査してくださってありがとうございました
れお様、コメントありがとうございます。

> かなり最近まで建物が放置されていたのには驚きました。

平成18年度に取り壊しが行われたようです。

>新浜の辺りにも、当時(25〜30年くらい前)に、火事などで燃えた後と思われるような廃屋?があったように記憶していて、もしかしてあれが近江学園か?とも考えましたが、位置的には違うようだというのも分かりました。

新浜にあったのは一麦寮や落穂寮ではないかと思いますが、火事にあったというようなことは、読んだ文献の範囲ではありませんでした。民家ではないかと思います。

> 文献など、インターネットではかえって探せないのが多いと思いますが、いつもしっかり丁寧に調べてくださって、ありがとうございます!

ネットで検索して出てくるようなことでは満足できなくなって調査を始めたので、そういって頂けると嬉しいです。こちらこそありがとうございます。
2013/05/26(日) 15:20:46 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
再びお邪魔致します。
先日南郷を訪れました。「惜友の丘」に親族が埋葬されているそうなので。
「お地蔵さん」の横の山道は、おそらく「山の家」に続く道ですね。
惜友の丘は、また違う山道を入るのですかね~
なんとか探し当てたいのですが、痕跡は全くありません
2014/03/23(日) 21:33:20 | 白雲洞 | #-[ 編集]
Re: タイトルなし
白雲洞様 コメントありがとうございます。

> 先日南郷を訪れました。「惜友の丘」に親族が埋葬されているそうなので。

「埋葬」まではされていないのではないでしょうか?
1948(昭和23)年の「墓地、埋葬等に関する法律」第四条において、「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行つてはならない」とされていて、厳しく制限されているからです。そこここに墓を作っていいことになってしまうと、公衆衛生面や心情面での問題の他、事件性があるような遺体が勝手に葬られてしまうようなことが起きかねず、秩序が保てません。

僅かな文献でも「石碑」とされているので、お墓は別にあるのではないでしょうか?

> 「お地蔵さん」の横の山道は、おそらく「山の家」に続く道ですね。
> 惜友の丘は、また違う山道を入るのですかね~
> なんとか探し当てたいのですが、痕跡は全くありません

航空写真などを見てもよくわかりませんね。逆に白雲洞様のような方なら何かご存知かも、と思っていました。
私もまた調べてみます。

図面がなぜかリンク切れになっていたので、UPし直しました。宜しければご覧下さい。

2014/03/23(日) 22:16:00 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
Re: タイトルなし
白雲洞様、こんばんは、コメントに補足です。恐らくとうにご存知かと思いますが、糸賀一雄生誕100周年記念事業の一環として、30日まで、滋賀県立近代美術館で「糸賀一雄展」http://100.itogazaidan.jp/event/event_2が開催されているようです。
新聞で記事を見たのに、すっかり忘れていて、焦っています。今週末行ってみようと思います。

2014/03/24(月) 23:39:09 | 喜撰猿丸 | #-[ 編集]
御礼
糸賀一雄の孫です。詳しい情報を教えて頂き、心より感謝申し上げます。幼い頃母(長女)に連れられ何度も訪れた思い出の場所ですが、障害を持った人たちが施設のあちこちで黙々と作業に打ち込む姿が鮮やかに蘇りました。
2014/09/07(日) 14:58:29 | 山下太郎 | #-[ 編集]
Re: 御礼
山下太郎様、初めまして、たいへんな方にこんなちっぽけなブログをご覧頂き恐縮です。
今はほとんど何の痕跡もなくなってしまっていますが、こんな写真や記事でも学園を思い出す縁(よすが)にして下さる方がいらっしゃるなら、私も書いたかいがあります。
行き届かない内容なのに、御礼だなんてもったいないです。こちらこそありがとうございます。
2014/09/07(日) 17:35:28 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
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