曽束中 そつかなか
所在地:大津市大石曽束四丁目
開設年月日:1964(昭和39)年8月7日?
改称年月日:(不明)曽束→曽束中
付近:貴船会館 帰命寺(きみょうじ) 貴船御霊神社
キロ程:曽束口から0.2キロ(石山駅から13.7キロ 大石小学校から4.9キロ)

曽束系統が開通した当初は、ここが曽束終点だったようです。
これについては、2010(平成22)年9月11日付拙稿京阪バス最後のボンネットバス①や2011(平成23)年2月28日付拙稿【臨時】こちらこそ驚きました 曽束バス停の位置でも書かせて頂きましたが、簡単におさらいしたいと思います。
まず、先述の記事で使わせて頂いた、Railbus様の写真を再度UPさせて頂きます。


いずれも1976(昭和51)年6月27日の撮影です。もうカラー写真の方が普通の時代で、ボンネットバスも少数派ですから、モノクロでボンネットバスだと、昭和30年代のように見えます。
↓現在
所在地:大津市大石曽束四丁目
開設年月日:1964(昭和39)年8月7日?
改称年月日:(不明)曽束→曽束中
付近:貴船会館 帰命寺(きみょうじ) 貴船御霊神社
キロ程:曽束口から0.2キロ(石山駅から13.7キロ 大石小学校から4.9キロ)

曽束系統が開通した当初は、ここが曽束終点だったようです。
これについては、2010(平成22)年9月11日付拙稿京阪バス最後のボンネットバス①や2011(平成23)年2月28日付拙稿【臨時】こちらこそ驚きました 曽束バス停の位置でも書かせて頂きましたが、簡単におさらいしたいと思います。
まず、先述の記事で使わせて頂いた、Railbus様の写真を再度UPさせて頂きます。


いずれも1976(昭和51)年6月27日の撮影です。もうカラー写真の方が普通の時代で、ボンネットバスも少数派ですから、モノクロでボンネットバスだと、昭和30年代のように見えます。
↓現在



バスの向こう側に見える、4本の特徴的な杉の木や、家の屋根の形から、この場所であることが確かめられました。

曽束にお住まいで、先述の記事にコメントを下さった7号系統様も、ここで間違いない、とおっしゃって下さり、更にさまざまな情報を下さいました。
それによると、現在の「曽束中」から先は、道が狭くて舗装もされていなかった(!)ため、現在の「曽束」まではバスが行けなかった、ということです。
バスは橋を使ってUターンをしており、ボンネットバスの時代には、写真中央の貴船橋を渡って川の向こう側の方の集落の中を走行していたそうです。
その後、現在の「曽束」バス停が回転場となりましたが、路線申請の都合等があったのか、ある程度まとまった距離を走らなければならないのに、暫くの間バス停としては使われないままになっていたそうです。今でいうと、石山団地の回転場が似た存在かもしれません。
現在の「曽束」で乗降が扱われるようになったのは7号系統様のご記憶では、1980年以降とのことでしたが、確かに1981年版の『京阪時刻表』掲載の1981(昭和56)年11月30日現在の路線図では既に「曽束中」「曽束」の記載があります。この頃に路線が延伸して、それまでの「曽束」が現在の「曽束中」になったのでしょう。




今は何の変哲もない、いったい1日何人が利用するのかと思われるようなバス停ですが、実は立派な終点だったのですね。
なお、少し周辺のことに触れますと、貴船橋の向こう側の帰命寺(きみょうじ)↓には、「キリシタン香炉」と呼ばれる平戸焼の香炉が伝わっていることが有名です。

これは、キリシタンの疑いをかけられて一時曽束に隠れ住んだ膳所藩主本多康将の弟・本多忠顕の遺品と言われています(『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』P284 『大津の伝説』P127)。
大津のかんきょう宝箱で写真を見ることができますが、「香炉」の字が間違っているし、写真も市役所の職員か誰かが適当に撮ったものみたいで、フラッシュのせいか写りが悪いし、残念です。簡単に見せてもらえるようなものではないのだろうと思いますが、曽束の歴史を物語る大切な遺産です。
↓橋の北詰からバス停の方を眺めています。

2013(平成25)年4月時点では拡幅工事が行われていました。今年7月に行ったら、完成していました。

子どもの数も減っているというのにいったい誰が渡るのでしょう。
次は、曽束 終点です。
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