青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
長等公園下 ながらこうえんした
所在地:大津市小関町
開設年月日:
廃止年月日:
付近:長等公園 大津大神宮 滋賀県神社廳(庁) 三橋節子美術館 〔現在ないもの〕大津市立乳児院(小鳩乳児院) 滋賀保護院




「長等」はこの近辺の広域を指す地名ですが、戦前はむしろ「神出」という方が普通だったようで、江戸時代から続く園城寺領の「神出村」が、明治22年から旧大津町、31年から大津市の「大字神出」となり、1951(昭和26)年から、「神出町」「神出車路(くるまみち)町」「神出小関町」「神出開町」「長等町」の5つに分割されました。「長等」が正式な行政上の地名となったのはどうもこの時が最初のようで、あくまでも「神出」の一部だったようです。

「神出」は園城寺山内にあった長等神社を勧請したことによる地名だということです。神様を出したから神出、ということでしょうか。

しかし、1965(昭和40)年、神出と長等の立場は逆転し、「神出〇〇」という町名だった範囲の大半が、「三井寺町」や「長等〇丁目」の範囲に取り込まれてしまい、現在も残っているのは、明治のころから県令によって開墾されて「神出」を「開いた」ことに由来する「神出開」から町名になった「神出開町(かみでひらきちょう)」しか残っていません(『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』P237-238)。今これを書きながら、子どもの頃から地図を見て、「神出開町」なんて変な町名だなと思っていた(お住まいの方、ご出身の方、大変申し訳ありません)のが、謎が解けました。

これは恐らく、「長等山」「長等神社」というこの地域全体の共通の古くからのシンボルによって、「長等」という町名を受け入れる素地があった上に、1941(昭和16)年にそれまでの「大津市立西尋常小学校」が後の「大津市立長等小学校」につながる「大津市長等国民学校」と改称され、「ここは長等学区だ」という意識が住民に根付き、「長等」の方が地名として有力になったということなのかと思われます。

「長等」は古代では必ず交通の要衝につけられた地名で、吉田金彦は奈良県御所(ごせ)から大阪の富田林に抜ける峠の麓の「名柄」との類似性を指摘しています(『京都滋賀古代地名を歩く』P178-179)

さて、前置きが長くなりましたが、長等公園は1902(明治35)年に作られた、大津市最初の都市公園です↓

IMG_5861.jpg

恐らく当時の日本人の意識の中に、「公園」という概念自体なく、ここで何をどうしたらいいのかもよく分からなかったのではないかと思います。

バス停があった位置は下の写真のもう少し奥かなと思うのですが、よく分かりません。

IMG_7428.jpg

付近は山手の住宅街で、とてもバスが走っていたようには見えませんが、1975(昭和50)年現在までの複数の都市地図でちゃんと路線が掲載されています。

IMG_7427.jpg

1975(昭和50)年頃にT.F.様が浜大津で撮影された写真では、この路線の末裔と思われるバスが写っているのですが、行き先は「長等公園」↓です。

滋2い884

大変貴重な写真です。まだあるのですが、それは「浜大津」の回で取り上げます。

1971(昭和46)年8月23日付の朝日新聞滋賀版に「おかしいバス停表示」という非常に興味深い記事が掲載されています。

読者投稿記事で、東大阪市に住む当時60歳の男性が、三井寺を参拝しようとして大津駅から三井寺行きのバスに乗って終点で降りたところ、バス停に「三井寺下」と書いてあったが、三井寺が見当たらずに困った、という話です。通りかかったひとに聞いたところ、
「ここは長等公園で、三井寺は北に向かって七、八分歩いたところです」
と言われたので仕方なく、
「バスで来た道をもどりました。なにしろ、年寄りの足ですので、十分近くもかかりました」
というのです。


「もどりました」?

私は最初、バスにもう一度乗ったのかと思いましたが、そうではないことは続く文章から明らかです。
普通に考えれば戻るのではなく、先に進んだのだろうと思うのですが…。
余談ですが、「60歳」で自分を年寄りなんていうひと、今はあまりいないのではないかと思いますが、やはり40年以上前の意識では、もう「年寄り」なのですね。

ただとにかく、どうもここを「三井寺下」と呼んでいた時期があったのは確かなようで、1970(昭和45)年版の都市地図では、ここが「三井寺下」で、旧大津市内線でもともと「三井寺」と呼んでいた位置、つまり前回の記事のバス停の位置にはバス停はありません。何らかの事情で短縮されたのかと思われます。

新聞記事中には、大津営業所サイドのコメントもあり、大津駅からだと滋賀里行きに乗って「円満院前(=現在の「三井寺」バス停)」が便利だが、この「三井寺下」バス停も利用ができること、「三井寺町」を通ることからこの名前を付けている、という事情を説明しています。その上で、対応を検討する、と述べています。

驚いたことに翌1972(昭和47)年の都市地図で、このバス停の名前は「長等公園」になっており、ほぼ間違いなくこの投書を意識した改称を実施したものと思われます。

整理すると、

1953(昭和28)年大津市内線開通時 「長等公園下」として設置
1964(昭和39)年以降       「三井寺下」に改称
1971(昭和46)年8月23日 新聞投稿で指摘
1971(昭和46)年以降       「長等公園」に改称



ということではなかろうかと思われます。
昭和40年代のこの時期、既になくなってしまった施設の名前がそのまま停留所名になっているとか、会社ごとに名前がバラバラで分かりにくいなどの問題がしばしば新聞で取り上げられ、なかなか改められない、と苦言が呈されていたりするのですが、ここの対応が非常に早かったのは、たまたま大きなダイヤ改正等があってそのついでにできたとか、地元自治会などとの話し合いがスムーズにいったということかと推察されます。

1976(昭和51)年現在の路線図には路線そのものの記載が全くないので、ボンネットバスの廃車とともに完全に路線が消滅したことはほぼ間違いないでしょう。
晩年は、T.F.様の証言や、先に引用した新聞記事から、「長等公園-浜大津-大津駅-名神大津または朝日が丘住宅」という形で路線が走っていたようです。

↓公園内には、『三橋節子美術館』があります。

IMG_5864.jpg

一度行ってみたいと思っていたので、見学しました。

三橋節子(1939-1975)は京大農学部教授の三橋時雄の長女として京都で生まれ、京都市芸大を卒業、同じ日本画家の鈴木靖将と結婚し一男一女に恵まれますが、1973(昭和48)年、右鎖骨という珍しい場所にガンができ、画家の命ともいうべき利き腕を切り落とさざるを得なくなりました。左腕で創作を続けましたが、ガンが転移し、1975(昭和50)年に大津日赤で亡くなります。

なぜ長等公園にこの美術館があるのかというと、もともとこの付近に彼女のアトリエがあり、『三井の晩鐘』『花折峠』など、滋賀県の伝説に因んだ作品を数多く描き残しているからです。

何か個性的なことをやり遂げるひとが多い家系なのか、姪の三橋桜子はチェンバリストとして活動中、そして残された2児のうち長男・鈴木草麻生(くさまお)はバドミントン選手として活躍したのち、現在はその筋では有名な指導者となっているようです。
親子で全く違う分野、と思っていたら、三橋節子も学生時代にバドミントンをやっていたそうです。物心つくかつかないかの長男に「バドミントンをしなさい」などと節子が言っていたとは考えにくく、不思議なことです。

昭和50年というと、まだこの辺りにバス路線があったはずで、彼女もアトリエの窓から、或いは幼子と散歩しながら、ボンネットバスを見たかもしれません。

遺族などの追悼文集なども読んで、感慨に耽りながら帰ります。

↓周囲に野良猫が多く住んでいます。

IMG_5871.jpg

↓更に進むと、暮らすのには不便かもしれませんが、味のある街並み。

IMG_5877.jpg

階段を下りると、再び元バス通りに出ます。

IMG_5878_20130921232150645.jpg

次は、真町(しんちょう)です。
関連記事
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
あけましておめでとうございます。
あけましておめでとうございます。
御無沙汰になってしまって申し訳ありません。。

お邪魔させて頂いたら、「長等公園下」の記事で、興味深く懐かしく拝読させて頂きました。
以前にも書きましたように、私の記憶は、市立図書館のある道路から北国海道へと曲がるバスの姿。。
昭和50年まで走っていたのならもっと鮮明な記憶があっても良さそうなものなのに何故かその姿だけです。。

「神出」も懐かしい響きで、「神出車路」は「かみでくるまじ」と親は言っていました。。

2014/01/06(月) 22:22:04 | yume | #/eG2YYas[ 編集]
Re: あけましておめでとうございます。
yume様、旧年中はお世話になりました。本年も宜しくお願い致します。

> お邪魔させて頂いたら、「長等公園下」の記事で、興味深く懐かしく拝読させて頂きました。
> 以前にも書きましたように、私の記憶は、市立図書館のある道路から北国海道へと曲がるバスの姿。。

やはり、それを実際の記憶として持っていらっしゃる方がいるんですね。
もっと語られてもよさそうなのに、やはり鉄道ほどに思い入れのあるひとが少なく、遺構も残りにくいためか、ほとんど誰も言及していないですね。でも潜在的には、いろんな人の記憶の中に、この路線があるのだろうと思います。

> 「神出」も懐かしい響きで、「神出車路」は「かみでくるまじ」と親は言っていました。。

「神出車路」は、「かみでくるまじ」と書いてある文献と、「かみでくるまみち」と書いてある文献と両方ありますね。もう一度調べてみます。
2014/01/06(月) 23:36:12 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
失礼ました。
先ほどコメントさせて頂きましたが、以前にもこのようにコメントしていました。 失礼しました。

私が子供の頃 長等公園はもっと自然いっぱいの場所でした。
高観音あたりは、もう自然にめぐまれすぎて女の子が近寄るような場所ではありませんでした。

昔 三井寺は 長等公園一帯も敷地内だったと言いますから、そんなところから「三井寺下」というバス停名だったのかもしれません。

でも 江若の「三井寺下」とは全く違う場所ですね。
2014/06/05(木) 19:26:18 | yume | #/eG2YYas[ 編集]
Re: 失礼ました。
いやいや、こちらこそ気づかず、お恥ずかしいです。
高観音になると、この当時小さな女の子だけで行くようなことはない感じなんですね。
南郷で言うと、岩間山や立木山、袴腰山に女の子だけで行くようなことはなかなかなさそうなのと似た感覚でしょうか?
私も高観音なんて『大津百町写真展』で写真を見ていなければ知らなかった場所でした。
2014/06/05(木) 19:32:15 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://contrapunctus.blog103.fc2.com/tb.php/734-73671d3e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック