青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。

南郷は小さな山村だ。別にこれと言つて見るようなものもない。しかし、これから笠置山脈の山の中に入つて、屈曲して流れて行く細長い峡谷に添つて、路が縷(る)のごとく通じてゐる。南郷から宇治まで五六里、この山の中は餘(あま)り人が入つて行かない。(田山花袋「宇治川の上流」『京阪一日の行樂』P487 博文舘 1923)

  

IMG_6379_20130427231408.jpg

南郷 なんごう
所在地:大津市南郷五丁目
開設年月日:(京阪バス)不明 (大正末期?)
      (京阪宇治交通)1962(昭和37)年11月1日?
廃止年月日:(京阪宇治バス)2008(平成20)年11月1日
付近:南郷公民館 南郷温泉
キロ程:南郷洗堰から0.5キロ(石山駅から5.4キロ)


小さな山村、見るようなものもない―――ずいぶんな書かれように南郷の住民としてショックですが、田山花袋が訪れたのは大正の頃でしょうから、まあこんな印象なのでしょう。続きで、

山はさう大して深いといふほどではない。嵐氣にもさう富んでゐない。しかし峽谷はかなり美しい谷である。



と褒め、しかしすぐまた、

水はさう綺麗ではないが、量が多いので、奔湍(ほんたん=引用者注 急流)、激流がそれからそれへとつづいて行つてゐる。



とぐさり。「水は綺麗ではない」(苦笑)。褒めてからまた落とすって、結構花袋は意地悪ですね(なんて読み方したら真面目な文学研究者に怒られるかもしれないけど…)。

でも、その「見るやうなものもない」何の変哲もない日本の昔の景色が、今何と貴重になってしまったことでしょう。

「南郷」バス停は、文字通り、大津市の南部に位置する南郷の旧集落の中心となるバス停です。



表玄関の機能こそ学校や支所などが集中する南郷一丁目にその座を譲っているように見えますが、この辺りこそ南郷の中の南郷だろうと思われます。
石山駅からここまでが、大津市内特殊区間制1区となっており、大津管内の定期券としては最も利用者が多いと思われる地区定期券の「石山地区」の南端です。


これより南は先行谷の地形で、川沿いの平地は極端に少なく、大石以外宇治までほとんど集落もなく、狭いながら多少の平地があって集落が連担していたこれより北の地域とは景観がかなり異なっています。旅客需要も、昔からこの辺りで一段落していたのだと思われます。

大津市など影も形もないような時代から南郷という地名だったわけで、別に大津市の南だから南郷ということではありません。古代の古市郷(ふるちごう)の南端に位置したことによる地名、と言われています(『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』P526)。

鎌倉時代には石山寺寺領の一部、江戸時代以降は膳所藩領となっているようです。その頃には、黒津や太子とともに、寺辺に対して漁場を巡って訴訟をしばしば繰り返したり、逆に大津の商人たちからは、南郷から瀬田川経由で伏見、大阪に抜ける荷物輸送禁止を訴えられて、瀬田川の岸辺には「荷物輸送禁止」の制札までたてられていたことがあったそうです(『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』P255)。
その後、明治22年から滋賀郡石山村の大字、昭和5年から石山町の大字を経て、昭和8年に大津市の一部となります。
もともと純粋な農村で、明治13年の調査では91戸全戸が農家、人口はたった434人ということです。今は茶畑などほとんどありませんが、当時の産物は、米のほか、茶、そして魚だということです。

今も、国道から少し脇に入ると、狭い道沿いに古くからの集落が続きます↓

IMG_6364.jpg

引っ越してきたばかりのひとはともかく、今の大津市内で「南郷」と言って知らないひとは堅田など遠く離れた北部でもまず皆無だと思いますが、もともとのイメージは、田舎、観光地というもののようで、今のように新興住宅街として知られるようになるのは実は最近のことです。花袋が見たのは、南郷の原型なのでしょう。

1972(昭和47)年3月6日付読売新聞滋賀版「わが町再見」という特集記事で、住居表示制施行前の「石山南郷町」が取り上げられています。

しかし“観光南郷”を売り物にした今では、ほとんどが兼業農家。三十六年に湯を吹き上げた温泉(鉱泉)を利用して料理旅館も繁盛、水と緑のイメージは十分生かされている。



いいか悪いかではありませんが、40年前のこの段階でまだこういうイメージです。この直後から、南郷グリーンハイツの開発が始まったはずです。

↓南郷温泉を代表する旅館と、そのすぐそばの大石方面のバス停。

IMG_6356_20130427231410.jpg

↓乗降扱いするW-3787.

IMG_6369.jpg

↓マンションとマンションの谷底にある石山駅方面のバス停。

IMG_6354.jpg

ここは上下のバス停が珍しいくらいかなり離れていますが、物理的な距離だけでなく、周囲の景観も全く別のバス停のように見えます。

特に石山駅方面は、バス停名が見えないように撮ると、誰も南郷だなんて思わないでしょう。向って左に見えるマンションは、もともと「不老園」という老舗旅館だったはずです。平成初期にはなくなっているようですが、どんな雰囲気だったか私も思い出せません。

国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所の公式サイト内「B-MAP」及び「B-BOX」の「増水時における瀬田川洗堰付近の様子(資料番号A07009B00007)」では、昔の「不老園」らしい建物が確かめられます。旅館らしい建物が多く、今よりずっと「観光地」「行楽地」というイメージだったらしいことが分かります。
「過去の洗堰と瀬田川の様子 その2(資料番号A04002B00002)」では、昭和30年代以前と思われる南郷などの景色が、見られます。
※赤字の写真タイトル、又は資料番号をB-BOXの検索キーワードに入れて下さい。

もっといろいろご覧になりたい方は、「南郷」「瀬田川洗堰」などのキーワードを入れてみて下さい。南郷が、今の若い世代や新住民にとっては本当に信じられないような田舎であったことが分かると思います。

↓よく見ると、石山駅方面は一応バスを待つためのスペースがあります。晴嵐台(南郷四丁目)の住民もだいたいここを利用すると思うので、目の前のマンションの住民も加わると朝のラッシュ時は大混雑ではないかと思います。

IMG_6561.jpg

ここは瀬田川が屈曲している部分に当たるため、カーブがきつく、石山駅から乗ってきたひとが降りて旧集落側に向かう時は見通しの悪い信号のない横断歩道を渡らざるを得ず、危ない感じがして仕方ありません。

IMG_6375_20130429135220.jpg

↓大石方面のバス停のすぐ北にかかる橋は「立木橋」です。

IMG_6374_20130429135220.jpg

昔から立木観音の参道入り口ともされてきました。
バス停の南西に、このような看板があります。立木観音というと、多くの方が「立木観音前」バス停から続く石段をイメージされると思いますが、私は立木観音に行くなら石段ではなく、山道から行きます。

IMG_6355.jpg

案内に従って歩くと、登山口が見えてきます。

IMG_6384.jpg

昨年、地元を離れている友人に逆に誘われてこの道から立木観音に行きましたが、結構しんどかったです…(+_+)
こんなにキツい道だったかな、と首を傾げましたが、子どもの頃の元気さがもうないから余計にしんどく感じたのかもしれません。小学校の記憶なんて、ほんの1、2ヶ月前に仕事で何をしていたのかという記憶よりはっきりしていて、自分がいた教室、理科室、家庭科室、音楽室など、迷わずにさっさと歩いて、何なら案内できるくらいの自信があるのに、年齢はちゃんと重なっている(-_-;)

次の岡の平との間に、洗堰を望むすばらしいロケーションの場所があることを知りました。瀬田川がまっすぐ流れているように思っていましたが、こうしてみるとかなり屈曲しているんですね。

IMG_6390.jpg

車両はA-1961です。

「南郷洗堰」の回の洗堰の写真を撮影したのと、同じ日に撮影したのですが、この写真でも、どのゲートが開いているか、よく見ると分かります。向って左の端、10番ゲート1か所だけが開いています。南郷洗堰 【石山外畑線・宇交石山線13‐1】の項の「クイズ」?の答えは「10番ゲート1か所」です。

次は、岡の平です。
関連記事
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
前回お話しさせていただいた、親族と田山花袋は、知己を得ていたようです。
花袋が南郷を訪れた時期は、寡分にして、分かりませんが、親族も近江学園の前身である、雅楽園の頃より住み込んでおりましたので、こちらでも交流があったかもしれませんね。

なんとも頼り無い話で、申し訳ありませんが。
2014/02/26(水) 23:26:21 | 白雲洞 | #-[ 編集]
Re: タイトルなし
白雲洞様、再度お越し頂きありがとうございます。
文豪と知り合いだったなんて、すごいご親戚ですね。スケールが違いますね。羨ましいです。
花袋のことを書いていると、はるか昔?の中高生時代に読んだ『田舎教師』がまた読みたくなってきました。
内陸のくすんだ自然を背景に、懊悩(おうのう)しながら生きる青年の姿に自分を重ね合わせたひとは、私だけではないことでしょう。

> 花袋が南郷を訪れた時期は、寡分にして、分かりませんが、親族も近江学園の前身である、雅楽園の頃より住み込んでおりましたので、こちらでも交流があったかもしれませんね。

近江学園の前身、ということは戦中以前、それはまたずいぶん古い話ですね。
2014/03/01(土) 01:18:10 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://contrapunctus.blog103.fc2.com/tb.php/644-28d6c0f3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック