青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
山中町 やまなかちょう
所在地:大津市山中町
開設年月日:?
付近:樹下神社 山中会館 旧大津市立志賀小学校山中分校(比叡平小学校山中分校) 旧大津市立山中保育園


山中町は滋賀県と京都府の境界線ギリギリのところにある、文字通り山の中の集落です。標高300mほどで、分水嶺である志賀峠(旧山中越)や、田ノ谷峠(今道越)からは京都側に下がったところです。

『週刊日本の街道56 京都・山中越と比叡への道』(講談社 2003)はこの町について、江戸時代の儒学者・貝原益軒「山中、民家多し、町あり、寒気ふかくして梅花も二月に咲く、桜はなをおそし」ということばを引いて紹介しています。



同書によると、1469-87年の「文明年間」(室町時代)にはここに延暦寺が関所を作って関銭を徴収していたそうです(P12)。

↓ここにも比叡平と同じ幟が立っています。

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ポールは京都方面側にしかありません。

現在、山中町は比叡平とは同じ小学校区としてまとまっています。大津市内の学区名が、「志賀小学校」の学区が「滋賀学区」である以外、通常は小学校の名前そのままで「膳所学区」「瀬田学区」などと呼ぶのと違って、ここは特に2地区だけから成り立っていて、人口の面ではずっと小規模な山中町と対等・平等であろうとするためか小学校は「比叡平小学校」でも、学区名は「山中比叡平学区」と呼称するのが普通です。市民センターも比叡平にありますが、名称は「山中比叡平市民センター」です。

しかし、昭和40年代に新しく生まれた比叡平に対して、山中町は「壬申の乱の残兵が逃れてこの地に隠れ、田地を開いて1村をなした」(『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』P709)ことで形成されたと言われています。壬申の乱は672年ですから、山中町は1,000年できかない歴史を持っていることになります。
明治22年に町村制が敷かれて滋賀郡滋賀村の大字となり、1932(昭和7)年5月10日大津市となります。これは膳所や石山の合併より約1年早いです。

これらの全く異なる2つの地域を結びつけたのは、小学生たちでした。
1979(昭和54)年大津市立比叡平小学校が開校するまで、比叡平の小学生は大津市立志賀小学校に通学していました。山中町の子どもは、比叡平小学校開校までは志賀小学校山中分校に、1979年度の1年間だけは比叡平小学校山中分校に、と言っても同じ場所に通い、1980(昭和55)年から一年遅れで比叡平小学校に合流します。

31年前の今日、1982(昭和57)年1月14日付の京都新聞滋賀版「まち点描 その1 県境今むかし」という特集記事で山中町と比叡平のことが取り上げられています。

当時の自治会長がインタビューに次のように答えています。

昔は京から来る人ばかり。生活は京都につながっていた。



更に記事は以下のように続きます。

勤めに出るのも、中学校からの学校も京都市内である。ただ、小学校だけは大津市立に通い、この点だけが日常生活を大津と結びつけているといってよい。



中学校から京都市内、というところに疑問を持たれる方も多いでしょう。山中町の中学生は、大津市民でありながら京都市立近衛中学校に通うという特例措置があるのです。
※1月現在、大津市の公式HP上では山中町は大津市立皇子山中学校の学区とされていて、この特例が現在も生きているのかどうかは不明です。

因みに、逆に左京区久多の小・中学生は大津市立葛川小・中学校に、伏見区醍醐一ノ切、二ノ切、三ノ切(いわゆる陀羅谷)の子どもは大津市立石山小・中学校に通学するという特例があります。

(引用者注 比叡平は)世代が若く「自分の縄張りを以て、ひとから干渉されたくない」気持ちが強いと聞いた。古い歴史を持ち、共同体意識が強い山中町とは対照的である。
歴史も考え方も異なる二つの町を結びつけたのは学校でありまず子供たちだった。
(中略)
最近、山中町の伝統行事に比叡平の親子連れが顔を見せることが多くなった。比叡平の盆踊りを、山中の婦人たちが指導もしている。



子どもが同じ学校に通うようになると、親たちの関心も自ずと学校に集まり、それまで近くて遠かった比叡平に目が向くようになったのでしょう。

交通についても書かれています。

バスといえば、大津から比叡平、山中町への路線バスはない。しかし、京都からは山中町へ京阪、京都、市バスが走っている。これは比叡平には回らない。比叡平では、団地を造成した会社がバスをチャーターして京都と大津(大津市も一部補助)へ走らせている。



この記事が掲載されたおよそ10か月後、路線バスが開通したわけです。

↓学区内には分校の跡らしい建物が残っています。体育館のようです。

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30年以上使っていないと、中はどんなふうになってしまうんでしょう。開けるのが怖いですね。
でも、卒業した子どもたちの夢や思い出がたくさん詰まっているのでしょう。壁には卒業制作か全校児童の共同制作らしいレリーフが残っていました。

↓「山中の未来」だそうです。

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昭和51年度の卒業生というと1964(昭和39)年生まれで今年49歳になるはずです。
上の方のトンネルのようなものは、地下鉄のように見えます。山をくりぬいて電車が走れば、と思ったのでしょうか?ずいぶん賑々しい山中町です。
その時代から見れば21世紀を迎えて10年以上経過した今は、十分に未来でしょう。結局山中町はこんなに未来的な賑やかな街にはなっていませんし、大人はたいてい、いつまでも静かな山里であってほしいと思うのかもしれませんが、子どもたちは伸び盛りで、この町が「変わらない」という風には考えにくくて、街も自分と並行して育っていくに違いないとか、やっぱり楽しく賑やかな方がいいと思っていたのでしょう。

↓昭和49年度の「太陽」

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39年間も雨風に晒されている割にはきれいによく残っています。山の中で日が落ちるのが早いので、みんな太陽が恋しいのかもしれません。

↓すぐ横が保育園跡です。休園扱いなのか、避難場所として今も「山中保育園」と書かれています。

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「山中会館」という公民館としても使われていて、選挙時には投票所となるようですが、大津市内122か所の投票所のうち9か所だけの「閉鎖時刻を繰り上げる投票所」の1つで、通常は20時終了のところ、ここは19時です。残り8か所は市北端の葛川(かつらがわ)と、南端の南郷・大石のそれぞれ4か所だけです。

山中町は取り上げることが多いので、次回1本別の記事を挟んだ上で、更に2回取り上げます。
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