青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
更新が遅くなり、すみません。あれほど暑くてたまらなかったのに、さすがに最近は、朝方、窓を開けていられないくらい寒いのですが、皆さんのお住まいはいかがでしょうか?季節の変わり目は風邪をひきやすいので、ご注意下さい。

さて、35年前の今日、1975(昭和50)年9月11日付の朝日新聞滋賀版に、京阪バス「滋2 い 887」のいすずBXD30型ボンネットバスの写真とともに、「ボンネット式バス第一線退く」という記事が掲載されました。
昭和40年式で、当時で10年ほど経っています。今の大津の京阪バスで言えば、A-3798、S-1074等が10年目に当たり、第一線を退くどころか、一番「脂がのっている」中堅どころしょう。記事では、5、6年で廃車になるバスが多いように書かれていますが、実際には当時も10年くらいが寿命というケースが多かったようです。ただそれでも、15年以上走り続けるのが普通の、今のバスの10年目と比べると「古い」という感じだったのかなと思います。

この記事は、バスが一人称で自分を語るというスタイルをとっています。

ボクがまだピカピカだったころは、大津市内に広い道が少なくて、小回りのきく同じ型のバスが何台もいた。そのうち湖岸道路なんかができて、ボクらの出番はだんだん狭められていった


湖岸道路の全通は1966(昭和41)年なのですが、それまでは、今の国道経由に呼応するのは、膳所の旧東海道経由でした。今となっては到底信じられませんが、膳所の旧城下町の狭い道をバスが通りぬけていたのです。

この当時既に、「彼」は、乗務員輸送などの裏方役が中心となっていて、

時々、ピンチランナーとして、石山から瀬田川沿いの路線を走ることもある

程度だったようです。

しかし、ピンチランナーになってしまってから後に、一般路線の営業運用に就く貴重な姿を、Railbus様が写真に撮っていらっしゃり、本ブログでの公開を認めて下さいました。本当にありがとうございます。

1132-2  1132 
1976(昭和51)年6月27日撮影



上の2枚の写真は、いずれも曽束(そつか)(大津市大石曽束5丁目地先)で折り返しの発車待ちをする「滋2 い 886」(社番1132)のいすずBXD30で、何とバスコレクションのモデルとなった車両です。

当時の撮影地の現在の様子を撮影しようとしたのですが、34年の歳月は重く、場所を探すのに意外に苦労しました。今の「曽束」のバス停の様子を見ても、あまりにかみ合わないため、首をかしげざるを得ず、Railbus様の証言や、現地の観察の結果、どうやら今の「曽束中(そつかなか)」のバス停(曽束の1つ大石小学校寄り)が、「曽束」終点だったらしいと推測されました。ただ、今の曽束中のバス停は、Railbus様撮影の写真なら、もっと右に首を振らなければならないので、バスの停車している位置は、恐らく現在で言うと、曽束緑地駐車場に下りる坂の入口あたりではないかな、と思われます。

曽束中3  曽束中1 
左2010(平成22)年9月11日撮影、右 同年9月5日筆者撮影


右の写真の背景に写る送電線がないのが気になりますが、はりかえられたのかもしれませんし、左の写真の左端にチラッと写る橋の欄干らしきもの、山の稜線、右の写真の背景の特徴的な4本の木、右に写る橋の欄干、家の屋根の雰囲気など、ぴたりと来るのはここだけでした。

現在、Railbus様撮影の写真と全く同じようにバスが停車することはほぼあり得ず、特に側面については撮影が非常に困難なため、バスなしの現状でご勘弁下さい。斜めもぴったり同じではありません。車両は、交野から転属してまだ1カ月ほどのS-1066で、最近の転属車の多くがそうであるように、緑の経過措置対象車ステッカーが貼られたままでした。

※なお、曽束にお住まいの方やご出身の方で、現在の曽束バス停までバス路線が延長された時期をご存知の方、或いは、私の推測が間違っているのではないか、という方、その他、曽束のバス路線について、何か想い出や情報をお持ちの方など、いらっしゃいましたら、コメントやメールでは本名を明かして頂く必要はありませんので、お気軽にご連絡下さい。

Railbus様からはもう1枚写真をご提供頂いたのですが、長くなりましたので、また明日公開させて頂きます。

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コメント
この記事へのコメント
No title
たけひろさんの所からリンクさせて頂きお邪魔させて頂きました。
とても面白いブログですね。大津の昭和30年40年代が非常に懐かしく興味があるので、こちらのブログ拝見しながらまた懐かしさに浸っていました。
「朝日が丘住宅行」ってありましたねぇ。「びわこホテル行」もついこの間まで走っていたような気がするのに、もう走ってないんですよねぇ。
子供の頃は三井寺近くに住んでましたが、あの頃は「三井寺下行」なんてバスがあり、長等神社の下まで行ってたように思います。

ボンネットバスねぇ。
南郷小学校出身でいらっしゃるようなので(私も現在南郷学区在住です) つい15年位まで走っていた「千町バス」と呼ばれるバスはご存知だと思いますが、あのバスが昔はボンネットだったんですよ。
千丈川沿の道が狭いという事で、石山駅から出る京阪バスで「千町バス」だけは唯一ボンネットでした。 「おばあちゃんちに行くのは、鼻のあるバスに乗る」。。あの頃は、ちょっと仲間はずれみたいで嫌でしたが、今となればいい思い出です。
そのあとも上千町での転回が大変だからと、赤川から誘導の方が乗ってこられてました。。

これからじっくりとこちらのブログ拝見させて頂きますね。
楽しみです。
2010/11/30(火) 21:40:49 | yume | #/eG2YYas[ 編集]
No title
コメントありがとうございます。

>つい15年位まで走っていた「千町バス」と呼ばれるバスはご存知だと思いますが、あのバスが昔はボンネットだったんですよ。

ずっと南郷に住んでいる私も、さすがにその時代は知らないですね。ただ、「唯一ボンネット」というのは多分違います。曽束行きもボンネットが最後まで生き残っていました。

>そのあとも上千町での転回が大変だからと、赤川から誘導の方が乗ってこられてました。。

ええ、赤川から同乗かどうかは忘れましたが、誘導員がいましたね。今も、誘導員がいますね。というか、いないとターンしたらいけないのかもしれません。

あの路線については、分からないことだらけなので、また何か思い出されたら、是非お知らせ下さい。
2010/12/01(水) 22:56:03 | 喜撰猿丸 | #-[ 編集]
ボンネットバス
木津川でございます。

親戚が唐橋前近辺ですので、小さい頃京阪のボンネットバスを何度も見た記憶があるのですが、1970年前半まででしょうか。
残念ながら蛍谷以南には行ったことがなかったので(晴嵐小学校校区が世界のすべて)バスの行き先まで覚えておりません。

中山律子さんボーリングブームの際、石山平和堂上層階のボーリング場に73~4年頃通ったのですが、ボーリング場とともにボンネットバスも見かけなくなったというのが私の記憶です。

78年に朝日グラフか毎日グラフかが全国の現役路線ボンネットバス特集号を出して持っていたのですが(実家の物置のどっかで発見できず)、このあたりでは、江若バスの安曇川路線しか出てなかったと思います。

別な親戚が神領団地にいるので、石山駅からのバス利用はもっぱら”近鉄”バスか帝産バスで、京阪バスにいたっては、
「唐橋から変なほうへ行ってしまうので、白と赤の京阪バスは絶対乗ったらあかんで」と、先年他界した祖母に言われておりました。
 今思えば、変なほうへ行ってしまうのは、瀬田小エリア、南郷小エリアお互い様ですね。
 そういえば粟中出身の私のおかんは「石山の都会で過ごした」と
いまだに妙なことを口走ります。昔昔の膳所駅の国鉄と京阪の連絡線事故も、見てないくせに、「昔ここででっかい事故があってな」とさも見たように、膳所本町になるとしゃべりはじめます。
郷土愛ということにしてあげております。
2010/12/10(金) 14:07:25 | 木津川 | #-[ 編集]
Re: ボンネットバス
いつもお世話になります。

> 残念ながら蛍谷以南には行ったことがなかったので(晴嵐小学校校区が世界のすべて)バスの行き先まで覚えておりません。

確かに、石山、南郷、大石のような、京阪石山寺(蛍谷)以南の学区に住んでいる人間は、石山駅前(晴嵐学区)に用事があっても、その逆はほとんどないでしょうね。

> 中山律子さんボーリングブームの際、石山平和堂上層階のボーリング場に73~4年頃通ったのですが、ボーリング場とともにボンネットバスも見かけなくなったというのが私の記憶です。

中山律子!懐かしい!…ていうたら実際より年が上だと思われるかな…。石山の平和堂にボーリング場があったというのは初耳です。

> 78年に朝日グラフか毎日グラフかが全国の現役路線ボンネットバス特集号を出して持っていたのですが(実家の物置のどっかで発見できず)、このあたりでは、江若バスの安曇川路線しか出てなかったと思います。

江若のボンネットバスは、比較的長命だったことで有名なようですね。確か1981(昭和56)年だったと思います。

> 別な親戚が神領団地にいるので、石山駅からのバス利用はもっぱら”近鉄”バスか帝産バスで、京阪バスにいたっては、「唐橋から変なほうへ行ってしまうので、白と赤の京阪バスは絶対乗ったらあかんで」と、先年他界した祖母に言われておりました。今思えば、変なほうへ行ってしまうのは、瀬田小エリア、南郷小エリアお互い様ですね。

昭和40年代までは、「石山寺より南に人間なんて住んでいるのか?」なんて言われていたそうですが、でも、こちらは瀬田よりはるかに昔から大津市に含められていますので(笑)。大石でさえ昭和26年ですからね。まあ、おっしゃる通り、お互い様?でしょうか。

>  そういえば粟中出身の私のおかんは「石山の都会で過ごした」といまだに妙なことを口走ります。

まあ、「滋賀郡石山町」の中では、「都会」でしょうねw 

>昔昔の膳所駅の国鉄と京阪の連絡線事故も、見てないくせに、「昔ここででっかい事故があってな」とさも見たように、膳所本町になるとしゃべりはじめます。

膳所駅辺りで、貨物列車が脱線した1968(昭和43)年6月27日の事故のことでしょうか?
石山駅や瀬田川鉄橋も、戦前に大きな事故があったようですね。
古い新聞を見ていると、身近なところで、驚くべき事件や事故が起きていることが分かって、びっくりすることがあります。
2010/12/11(土) 15:18:01 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
中山律子さん
石山の平和堂のボウリング場に中山律子さんがいらっしゃった事があったのですか。。知りませんでした。
当時 ボウリング場は大津ボウル(現在のアーカスあたり。これは近年までありましたので喜撰猿丸さんもご存知でしょうね)と
近江ボウル(国道161号線浜大津あたりを少し北に走ったあたり、あたか飯店のあたり)にありました。 あとは、西武より少し南にもあったようです。

昔話をさせるとキリがありませんが。。(と言っても喜撰猿丸さんより少し下の南郷中学卒業生の母でありますが。。)

書きたかったのは ボンネットバス転回誘導の話。

町の噂に他ならないと思いますが、千町バスが廃線になったのは、
転回誘導をされていたオジサンがお亡くなりになられたからだという事でした。。 
ま、考えたらそれだけで廃線になるのはおかしな話ですね(笑)

最近は自宅前で岩間寺行バスを見る事はなくなりましたが南郷中学路線から右折コースで走っているのでしょうか?

千町バス。。 自家用車とのすれ違いも大変でした。
赤川から千町口でもすれ違えず、鉢合わせするとひたすらバック。
地元民は心得たものでその時間は運転を避けていましたよ(笑)
今でも待避所の名残ある場所もありますね。
2010/12/13(月) 19:39:15 | yume | #/eG2YYas[ 編集]
No title
yumeさま、コメントありがとうございます。木津川さんのコメントをご覧になって書いて下さったのだと思いますが、中山律子さんが平和堂に来た、ということではないと思います。

>ボウリング場は大津ボウル(現在のアーカスあたり。これは近年までありましたので喜撰猿丸さんもご存知でしょうね)

…すみません。全然分かりません。京阪レークセンターはかすかに記憶にあります。
私はずっと、石山からJRに乗って京都方面に通学、通勤しているので、間の膳所や大津のことは知っているようで、自分でもびっくりするくらい知らないんです。
石山の近江ボウルは知っていますが…。

>町の噂に他ならないと思いますが、千町バスが廃線になったのは、転回誘導をされていたオジサンがお亡くなりになられたからだという事でした。。

あの方は有名人でしたね。ただ、あの方が亡くなってからも、転回の必要な上千町の肝心な部分がなくならないので、やっぱりそれは噂でしょうね。
 
>最近は自宅前で岩間寺行バスを見る事はなくなりましたが南郷中学路線から右折コースで走っているのでしょうか?

はい、石山小学校⇒野々宮(客扱いなし)⇒中千町⇒上千町…のルートです。

>千町バス。。 自家用車とのすれ違いも大変でした。
赤川から千町口でもすれ違えず、鉢合わせするとひたすらバック。
地元民は心得たものでその時間は運転を避けていましたよ(笑)
今でも待避所の名残ある場所もありますね。

確かに、改良されたところもありますね。でも、大半は普通車も離合が不可能なので、南郷中学校系統と併存させる意味がない、ということで廃止されたのでしょう。
2010/12/14(火) 23:50:41 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
石山平和堂
木津川でございます。

はい 当時国民的超アイドルの中山律子さんは、平和堂石山店にはいらっしゃっておりません。しかし老若男女すべての世代がボーリングにはまったあのブームは凄かったと思います。職場のたそがれ親父が妙にボーリングのスコアがよく、OLから見直されるなんて話もあるのではないでしょうか(冗)

ところで、平和堂石山店でネット検索をかけてみたのですが、
結構ブログで話題にされている方が多いので、びっくりしました。
竣工当時、周りにビルはありませんでしたから、西武が出来るまでは本当に文化の先端だったのでしょう。国道高架、京阪踏切、というロケーションが子供心に「近未来都市」(大げさかな)を感じさせ
記憶に残っています。(現在展開のアルプラザは何か違和感。アリタリア航空のようなマークだし)

京阪レークセンターはパノラマプールでしたでしょうか?夏のいとこ連中との水遊びは、ここか、唐橋東側の三洋電機のプールでした。
(話題がバスから離れてってますが、)鳥居川の某産婦人科で誕生したのも何かのご縁、石山を応援したいお思います。

川島令三先生の著作の中で、「新快速は石山ではなく、停車させるなら膳所であろうと」いうコメント 寂しかったです。
2010/12/23(木) 09:23:49 | 木津川 | #-[ 編集]
Re: 石山平和堂
木津川様、いつもありがとうございます。

> ところで、平和堂石山店でネット検索をかけてみたのですが、
> 結構ブログで話題にされている方が多いので、びっくりしました。
> 竣工当時、周りにビルはありませんでしたから、西武が出来るまでは本当に文化の先端だったのでしょう。国道高架、京阪踏切、というロケーションが子供心に「近未来都市」(大げさかな)を感じさせ
> 記憶に残っています。(現在展開のアルプラザは何か違和感。アリタリア航空のようなマークだし)

私も検索してみましたが、今お住まいの方だけでなく、この辺りの出身の方も思い出を書いていらっしゃったりしますね。
確かにあの平和堂ができたのは1970(昭和45)年、ちょうど40年前ですから、そりゃ周囲も変わりますよね。最近、昭和20-30年代の写真集には既に写っていたような老舗のお店が次々になくなって、マンションがやたら多くなりましたね。

> 京阪レークセンターはパノラマプールでしたでしょうか?夏のいとこ連中との水遊びは、ここか、唐橋東側の三洋電機のプールでした。

私が行ったのは、スケートリンクでした。大津比叡山線用のエアロスターBタイプ車で行ったのを覚えています。本格的な観光バスを使うほどでない、小学校の社会科見学などの短距離の移動は、今も結構B車を使っていますね。何回も書いていることですが、オレンジ色のハイバックシート、補助席、細かく仕切られた幕式運賃表、つまみが二重になった整理券発行器の操作盤、懐かしいです。

> (話題がバスから離れてってますが、)鳥居川の某産婦人科で誕生したのも何かのご縁、石山を応援したいお思います。

ええ、住めば都ですよ。

> 川島令三先生の著作の中で、「新快速は石山ではなく、停車させるなら膳所であろうと」いうコメント 寂しかったです。

そんなこと書いてはりましたっけ?それは駅勢圏の広がりなどの地勢を分かってはらへんとしか思えないですね。新快速南草津停車など、JRはJRで動きがいろいろありそうですね。
2010/12/23(木) 11:12:33 | 喜撰猿丸 | #-[ 編集]
No title
12月11日付のコメントで、「江若のボンネットバスは、比較的長命だったことで有名なようですね。確か1981(昭和56)年だったと思います」と書きましたが、読者の方から、1982(昭和57)年ですとのご指摘を頂きました。お詫びして訂正いたします。
2010/12/27(月) 20:33:32 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
驚きました
地元民です(滝汗

このボンネットバスの写真には驚きました
これぞまさしく私が幼少の頃に見たバスそのものです
涙が出そうなくらい嬉しいです・・・。

1976年6月撮影との事ですので
非ボンネットのツーマン新車両に移行する直前ですね

ここの子供達はバスではるか大石小学校まで通っているのですが
私が小学校に上がる際(1977年)には、このボンネットバスは
7号系統からは外れていたはずです
(一人で乗車した記憶がありませんので)

こんな時代に、こんな田舎まで写真を撮影しにこられた方がおられたなんて
ただただ驚くばかりです

当時、ボンネットバスが撤退するとは言っても
さほど話題になることもなく静かに引退していったはずです。

たしか上千町路線とこの曽束路線が大津営業所では
最後のボンネットバス路線だったと記憶しています


情報として捕捉させて頂きます

このモノクロ写真の位置は、管理人様が現在の写真を撮影された場所で正解です
当時の終点「曽束」は現在の「曽束中」だったです

現在の終点位置が「曽束」となったのは
私が小学校高学年の頃、1980年以降だったと記憶しています
(正確な年月がわからず申し訳ありません)

終点が移動するまでの流れを整理します

・ボンネットバスで開通した時代は
 この位置から先の川沿いの道が非常に狭く
 舗装もされていなかった為、現在の終点までバスが行けなかった

・この位置が曽束という集落の中心地であり、これ以上
 先にバス停を作る必要性もなかった
 (すみません、ここまでは推測です)

・バスは橋を使ってUターンをしていた

ちなみに、ボンネットバス時代はモノクロ右側の写真の右端に写っている
狭い橋を渡って、なんと曽束の本当の集落の中を走行していた事がありました

行ってみた事がおありでしたら判るでしょうが、信じられないほど
狭い道をボンネットバスが走り、乗降客の利便を図っていたのです

曽束口~終点曽束までの間に、正式なバス停はありませんので
下校する小中学生達の為に、乗務員の方がサービスで通っていたのかもしれません

ハナシが反れましたが、終点移動までのいきさつの続きです

・非ボンネット・ツーマン化に更新された際、橋を使ってのUターンができなくなり
 現在の終点「曽束」の場所を「バス回転場」とする様になりました
 恐らく京阪バスが借り上げたものと思われます
 「ここはバスの回転場です、駐車禁止」という大きな立て看板がありました

・路線申請等の都合もあったのでしょう、バスは近くまで来るのに
 回転場近くに住む人は、そこからバスに乗れないという
 不思議な現象が数年続きました

・現在はほぼ過疎の地域ですが、当時は工事用の大きな宿舎が
 この回転場付近にあり、現在の数倍のバス需要がありました
 (アサは大型バスでも立ち客で一杯でしたので)
 アサ、バスがこの場所に来ると子供達がゾロゾロと回転場に停まっている
 バスを横目に、現在の曽束中まで歩いて来ていたものです

子供ながらに、なんで回転場のところから乗せてあげないのかな?と思っていました
(ちなみに私は「曽束口」より乗車していました)

前にも書きましたが終点が移動したのは、80年代の初めだと思います
同級生達が「便利になったわぁ~」と喜んでいたのを覚えています


書きながら思い出したのですが、車両が新しくなったものの
ツーマン仕様でもなぜか車掌が乗務していた記憶はあまりありません

割とすぐにワンマン化された様に記憶しています

バックモニターの普及により、ワンマン化されたと思われがちですが
当時京阪バスはバックモニターの普及が遅く、こんな田舎路線で
モニター無しの車両でも無理やりワンマン化がなされていた様に覚えています

合理化の一環だったのでしょうか?

また何かを思い出したら書き込みしますね
長文失礼しました
2011/02/28(月) 21:28:39 | 7号系統 | #74M0PgTc[ 編集]
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