青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
岩坂 いわさか
所在地:(京都方面)京都市左京区北白川中山町 (比叡平方面)京都市左京区北白川岩坂町
開設年月日:1958(昭和33)年4月19日?
付近:


比叡平から来るとここからが京都市で、三条京阪から来るとここが京都市の外れです。昭和40年から続く町名で、それ以前は左京区北白川字岩坂でした(『角川日本地名大辞典 26 京都府上巻』P494)。北白川の中でも平野部は1918(大正7)年の京都市合併時から「北白川〇〇町」の今のような住所ですが、山間部はこんな古めかしい住所だったんですね。



1989(平成元)年の『奈良大学紀要』第17号に「志賀の山越えの『いはえ』考」(森本茂)という論文を見つけました。
大和物語第百三十七段に、
「志賀の山越のみちに、いはえといふ所 に、故兵部卿の宮、家をいとをかしうつくりたまうて、時々おはしましけり」
とあり、この「いはえ」とはどこかという命題を、他の文献とも照らし合わせながら検証するというものです。

故兵部卿の宮とは、百人一首第二十「わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしてもあはむとぞ思ふ」(『後選集』恋・961)を作った元良親王のことです。

森本氏は、「いはえ」はこの「岩坂」なのだと結論づけています。
「坂」を崩して書くと「江」のように見えるので、コピーはおろか印刷もない時代のこと、全部手写しなので写し間違いが定着したのだろうということです(P26-33)。

こんなところに皇族の屋敷があったとはとても思えませんが、今と違い、岩坂は現在の北白川琵琶町辺りまでのもっと広い範囲を指す呼び方だったので、琵琶町の辺りなら建てるだけの土地があったのではなかろうかと言っています(P33)。
また、「岩坂」は何の変哲もない山間部の小地名のようですが、何と『平家物語』や『源平盛衰記』にも登場する由緒ある地名だということもこの論文で知りました(P31)。

この論文は「奈良大学リポジトリ」で検索できますし、著者名と「大和物語」などのキーワードを組み合わせて検索してもPDFがヒットするので、読むことができます。

こんなところですが、バス停の少し山中町寄りに僅かながら民家があります↓

IMG_4198.jpg

後で地図を見て分かったのですが、この辺りの町の境界線は複雑で、恐らくこの写真に写っているお宅の住所は、「北白川重石町(かさねいしちょう)」で、バス停は上にも書きました通り、また別の町になります。
この重石(かさねいし)町と岩坂町で先に引用した地名辞典の編集時点(1982年)で合わせて4世帯14人が生活していることになっています。

「重ね石」と呼ばれる石が近くにあるようですが、私は見ることができませんでした。

↓比叡平方面のバス停

IMG_4132.jpg

谷底のなけなしの土地をうまく使って、どうにか退避できるスペースを作ってあります。

↓通過して山を登って行くB-1229

IMG_4127.jpg

↓比叡平方面に比べて貧弱な京都方面。立って待っているのが怖い感じがしますが、年に何人ほどのひとが利用するのでしょう。

IMG_4130.jpg

ところで、先ほどの論文の森本氏がどういう方なのか検索してもよく分かりませんでしたが、同じく奈良大学の紀要第15号で「源氏物語の『二条院』の位置」(1986)という論文も発表しているので、位置を特定するということにもともと興味を持っていらっしゃるのかもしれません。
それがどうしたと思うひともいるかもしれませんが、それによって文章の解釈が変わってきたり、場合によっては歴史も塗り替わるようなことがあり得ます。

私のやっていることなどと同じ次元で語るのはおかしいですが、20年や30年前にバス停の位置が変わったりしていたって、調べるのは結構大変なのに、古典文学に書かれていることに基づいて、それが今のどこかを探すというのは並大抵の苦労ではないと思います。
数十年前のことが調べきれないだの、どうしたらいいか分からないだの嘆くのはまだ早いということかもしれません。

次は、地蔵谷
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