青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
4回に渡ってお届けした、昭和27年の大津市立南郷中学校通学問題に関する記事も、一応今回が最終回です。
60年前の今日、1952(昭和27)年8月29日付滋賀日日新聞↓

S27.8.29S 南中通学バス交渉まとまるb

新学期3日前にして漸く、
「交涉まとまる」
との見出し。

「大石の一部に、新校舎通學反対、分校存置の聲(=声)があるとのウワサに」大津市会議長と教育委員が現地に赴いたとのことですが、ウワサ程度でこんな重鎮が動くなら何でも動かないといけなくなっていくら時間があっても足りません。いや、「ウワサ」などという安物週刊誌みたいなことばをこんな形で新聞で使う記者がおかしいのか…。いずれにしろ今なら考えられないですね。

「曾束、富川、小田原の父兄四五十名が、遠隔地へ子供を通學させるのは時間的に困難、通學費の負担は困難だから市で援助してほしいと分校(大石校の一部を利用)の存續を希望」

合併によって通う学校が変わるということは大きな問題なのだから、前にも書きましたが、周到に説明会を開いて準備すべきなのに、何ということでしょう。
この記事の文章自体も実に不思議です。時間的、経済的に困難だから、市で援助してほしいというのが保護者の要望なのか、分校の存続が要望なのか分かりません。
市で援助するということは、市が交通費を負担するということで、分校の存続ということではないと読むのが普通でしょう。

因みに、引用しながら改めて気づきましたが、やはり中学校の分校は小学校と同居していたんですね。

最終回のまとめとして、私なりに、この頃からの中学校の通学区の変遷を、今度は地図にしてみました。どうやって作ればいいか分からず、本当に「手作り」なので、恥ずかしいですが…。
基本的に■が本校、●が分校です。大津市立第五中学校、粟津中学校の北の境界線はどこなのかよく分からないので、点線にしています。図のグレーの線は、現在の大津市立の小学校の学区境界線で、膳所(ぜぜ)より北側は省略しています。
青い線は瀬田川、その他の色の線は、そのときどきの中学校の学区の境界です。

宜しければ8月16日付拙稿昭和27年 大津市立南郷中学校通学問題ⅠにUP中の関係年表や系統図も合わせてご覧下さい。

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①は新制中学となった昭和22年4月、大津市が瀬田川の西岸までだった頃です。ほとんどの中学校が小学校の校舎を借りる形ではあるものの、各町村独自の学校である点で、生徒やその親は安心だったことでしょう。

②翌23年9月。大きく真っ二つになります。粟津中学校の系統と、瀬田(栗南)中学校の系統です。それでも、小学校の校舎に併設されていたらしい分校はほぼ継承されているようです。

③翌24年4月。範囲は変わりませんが、この時、大津市立粟津中学校が誕生し、旧滋賀郡石山町の範囲は、ほぼ同中学校の校区としてまとまります。

④その年の8月には田上だけ二か村組合立として独立し、何と瀬田と大石が田上を挟んで「飛地」で同じ中学校、ということになりますが、実際には大石は分校なので、設置主体が変わるだけで、通う場所は恐らく変わっていません。

ssScan0494_20120820215807.jpg

⑤昭和26年4月だけ斜線を入れていますが、これがこの時の新しい大津市の範囲です。学区と、市の範囲が一致せずややこしいので、ここだけはっきりするように斜線を入れました。今の田上学区の範囲は、上田上より先に大津市に属していて、大津市立田上小学校を卒業すると、大津市・上田上村組合立田上中学校に通うのが基本だったということになります。
 大石は、やはり設置主体が変わるだけで、通う場所は恐らく変わっていませんが、この時から、粟津中学校の分校とされます。

⑥昭和27年4月、旧大津市立南郷中学校が誕生し、現在の大津市南部の半分以上、当時の大津市域で考えれば石山寺以南全てが南郷中学校の学区となります。拙ブログでも書いておりますように、大石、田上の本格的な統合はこの年の9月のようです。

⑦瀬田町と上田上村の合併等細かい動きはいろいろありますが、南郷中学校にかかわりそうなのは、昭和42年の大津市・瀬田町合併です。この時に、田上が南中の学区から外れたものと思われます。

⑧一気に時代が飛びますが、現在です。昭和62年に現在の南郷中学校が赤尾町に開校して旧南郷中学校が石山中学校となった他、昭和58年に瀬田北、平成10年に青山の各中学校が分離独立します。そんな中でも、田上と南郷はそれなりに広大な面積を保っていることが分かります。
山林がほとんどですが、通学が遠距離になる集落が当然含まれます。

概して、人口の少ない周辺部が振り回されていることがよく分かります。

新聞に戻ります。

「希望にそうよう努めるから」

ウソつけ。

「二學期からはとりあえず新校舎に通學してほしいと要望した」

臭いものには蓋というか何というか…。これじゃあ「交涉まとまる」なんて言えないですね。
とはいえ、私が調べた限り、直後の新聞で通学が拒否されているなどの問題が掲載されることはなく、保護者もまさか子どもを学校に通わせないわけにもいかず、恐らく諦めたのだろうと思われます。

新校舎への通学が既成事実になってしまうと、もう「大石分校」の要望は出なくなってしまいます。実際、60年経った今、大石分校の話など出てこないどころか、こんな話があったことを覚えているひとも、もはやほとんどいないのではないでしょうか。25年前に現在の南郷中学校が開校する時点では、昭和27年といってもまだ35年前の話で、当時の60歳くらいのひとなら、この当時のいきさつを知っていたとしてもおかしくありませんが、私が調べた限り、その話が蒸し返されるようなこともなく、今の赤尾町の位置で落ち着いたようです。

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南中の通学問題はこれで終わったわけではありません。先述の通り、私が調べた限り、分校の件はその後話題にはなっていないようですが、事あるごとに高いバス代への不満その他諸々の問題が取り沙汰されます。

折を見てまた詳しく取り上げますが、大津市の「遠距離通学者通学費補助事業」(「大津市 通学 補助」などをキーワードにして検索すると、PDFファイルが見られます)のスタートは、今回の特集で取り上げた昭和27年から20年以上経過した昭和50年度を待たねばなりません。
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