青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
九条山 くじょうやま
所在地:(三条方面)京都市山科区厨子奥花鳥町(ずしおくかちょうちょう) (浜大津方面)京都市山科区日ノ岡一切経谷町(ひのおかいっさいきょうだにちょう)
開設年月日:
付近:医療法人十全会京都東山老年サナトリウム
キロ程:日ノ岡から0.9キロ


日ノ岡で既に上り気味だった坂道が、逢坂山にも劣らぬ急勾配となって眼前に立ちはだかります。やっとのことで坂の天辺が見える急カーブに差し掛かると、旧東海道と合流します↓

IMG_7169.jpg

右手の進入禁止の標識がある道が旧東海道なのです。細くてとてもそんなふうに見えません。

そのそばに京津線の廃線跡の土地を利用した、曽ての車石をモチーフにしたモニュメントがあります。

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重要な交通路である一方、この辺りは粟田口の刑場があり、死者が谷底に突き落とされていて、京津国道を工事すると骸骨がゴロゴロ出てきたと言われています。

坂を登りつめると左手にこんな場所が↓

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ここが「粟田口刑場」の跡の一つだそうです。何か所かに分散していたようです。
明治初期の一時期は、「粟田口解剖場」も付近に設けられ、何とガラス張りにして外から医師たちに見学をさせたのだと言います。明治にガラス張りの建物というのがちょっと想像できません。

明智光秀など、歴史上有名な人物も含め、15,000人もの人々が処刑されたというそこには現在、慰霊碑が建っています↓

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下の方がはっきり読めませんが、京津線ができる時に供養のため建てられたもののようです。
京津線があった時は、線路際で簡単には行けない場所だったことでしょう。

こちらは、知恩院門跡の日野霊瑞の手による「南無阿弥陀仏」の碑。

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IMG_7161.jpg

裏を見ると、刑場の慰霊というよりは動物の慰霊のような内容に見えます。

それにしても、東海道という重要な交通路でもあるそんなところに刑場なんて、と思いますが、よく考えたら東京品川の鈴ヶ森もそうであるように、街に近からず遠からずの幹線道路沿いは、民(たみ)に見せしめにするための刑場がつきものなのですね。

恐ろしがって誰も寄り付かなかった、という話も各種の資料やネット上の情報で散見されるのですが、東海道は日本を代表する圧倒的に重要な街道であり、実際のところどうだったのだろう、と思います。ここが本街道であっても、伏見街道や渋谷街道に迂回するひとも多かったのでしょうか。でもそれなら三条大橋に何の賑わいもなくなってしまいますね。どうもその辺りがよく分からないのです。

↓バス停にもう少しで辿り着くというところでまた石碑

IMG_7142.jpg

この辺りは本当に石碑が多いです。
また怖いことが書かれていたらいやだな…と思ったら、篆書ながら何となく「修路碑」と一番上に右から左に書かれているらしいことは分かりました。

位置はこちらです↓

IMG_7149.jpg

あとでいろいろネットを調べると、写真ではなかなか分かりにくかった全文がいしぶみデータベースさんに掲載されていました。

京都三条橋以東抵近江国界道路険仄往
往称不易行而日岡嶺為最甚焉然以当両
京周道車馬旅客之行皆靡不由於此使憧
憧之人永苦往来豈忍乎哉因以明治八年
経始起工越二年而告計為程一里十九
町五十一間有奇易険為夷易仄為平而嶺
之道高者又低一丈一尺四寸庶幾乎車馬
旅客皆可以免往来之苦也歟明治十年三
月京都府知事従五位槇村正直撰
太政大臣従一位三條實美篆額
京都府四等属中村勤謹書

※太字にしている「藏」の字は、同データベースでは不明と考えられたのか、*となっていましたが、見たところ「蔵」の旧字体「藏」ではないかと思われます。

私は漢文ができず、得意な知り合いもいないので、読むのに難渋しました。

三条大橋から東、近江との国境までの道路は険しく、往来がしにくくて、特に日ノ岡の険しさは甚だしかった。

どうかな?と思ったら、ちゃんとデータベースに大意が書かれていました(笑)。この部分の訳はだいたい合っていました。ああよかった。

続きはデータベースの大意を参考に書かせて頂きます。

「両京」、つまり京津間を行き来するにはこの峠を通るしかなく、みな難路に悩んでいたので明治8年に工事を行って、完成した。約6キロの間、高低をならして最高3mも低くした。往来するひとの苦難が免れることを期待する。

今でも結構な坂道に見えますが、昔はもっと厳しかったのですね。

ここまでで結構な量になりましたので、続きは次回にさせて頂きます。
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コメント
この記事へのコメント
京津国道と刑場
はじめまして。私が勤務していたO市民病院の先輩医師が書いたエッセイですが、京津国道の刑場は、粟田口以外にも、追分(旧京阪バスの車庫があった辺り、今は某リネン工場になっています)。逢坂山辺りには首を見知した石があると。
これは今も残っているのかどうか。35年ほど前には、真ん中が窪んだ石が検問所の前に確かにありました。
大谷には、食肉処理場があり、これも何かの縁かと書かれていました。
有名な鰻料理のお店 。鰻の頭、半助ができるのも何かの縁かとエッセイは結ばれていました。街道筋ならではの逸話、お盆過ぎの話題提供でした。
2016/08/23(火) 20:46:33 | 大津の者 | #-[ 編集]
Re: 京津国道と刑場
初めまして、コメントありがとうございました。

> はじめまして。私が勤務していたO市民病院の先輩医師が書いたエッセイですが、京津国道の刑場は、粟田口以外にも、追分(旧京阪バスの車庫があった辺り、今は某リネン工場になっています)。逢坂山辺りには首を見知した石があると。

怖い…。検問所自体、今残っていないのではないでしょうか。比叡平には、もう何十年も使われた気配のない検問所がありますが。
今ネットで検索してみたのですが、トイレになっている場所でしょうかね。石碑の横に真ん中が窪んで水がたまった石が写った写真をアップされているサイトさんもあったのですが、それのことでしょうか。今一度調べ直してみます。

> 有名な鰻料理のお店 。鰻の頭、半助ができるのも何かの縁かとエッセイは結ばれていました。街道筋ならではの逸話、お盆過ぎの話題提供でした。

鰻の頭は食べようとしても骨が大きくてきつすぎて食べられなかった記憶があります。

どんなエッセイでしょうかね。是非読んでみたいです。
2016/08/23(火) 21:05:29 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
粟田口解剖所の資料に
「堅田から」のシリーズから拝見してます。有難うございます。今秋に日本医史学会関西支部学術集会で「粟田口解剖所をめぐって 八木聖弥(京都府立医大)」の演題で口頭報告がされたと、同学会のサイトにありました。今後、八木教授の報告抄録が公刊されれば、停留所周辺にまつわる史実の参考資料に出来るかもしれませんね。
2016/11/30(水) 01:32:44 | ぱす | #A63dg/4k[ 編集]
Re: 粟田口解剖所の資料に
ぱす様、せっかくのコメントだったのに遅くなって申し訳ないです。

> 「堅田から」のシリーズから拝見してます。有難うございます。今秋に日本医史学会関西支部学術集会で「粟田口解剖所をめぐって 八木聖弥(京都府立医大)」の演題で口頭報告がされたと、同学会のサイトにありました。今後、八木教授の報告抄録が公刊されれば、停留所周辺にまつわる史実の参考資料に出来るかもしれませんね。

私程度の人間でも読めるようなものなら、拝見したいものですね。医史学…なるほどそういう分野もあるんですね。医学部出身の研究者も、文学部出身の研究者もいるようですが、この方は医師ではなく文系の学者さんみたいですね。
2016/12/19(月) 19:38:40 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
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