青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
開拓村 かいたくむら
所在地:大津市大石曽束町字大田
開設年月日:1962(昭和37)年11月1日?
廃止年月日:2008(平成20)年11月1日
付近:大津市大田最終処分場
キロ程:小田原から1.7キロ(石山駅から14.9キロ)


石山―京都間が14.5キロですので、大津市最後のバス停、開拓村まで走ると、京都への距離を超えるということになります。



一体「開拓村」とは何なのかと思われる方が多いと思います。石山線でも屈指の謎のバス停だと思います。
私も子どもの頃から、存在は知っていましたが、「開拓村」の何たるかをはっきり意識したのは最近です。


『大石のあゆみ』(1970)によると、戦時下で食糧事情の悪い1942(昭和17)、1943(昭和18)年頃、大石のこの辺りが開拓地として好適として、「増産地域」として開墾することが政府から指令が発せられたのだと言います(P89)。
入植したのは宇治田原の素封家(そほうか=資産家)の二男、三男らで、ブルドーザーなどというものはないので、人力で文字通り開拓して、立派な耕地を作ったのだと言います。

この付近で民家が確認できるのは、1993(平成5)年版の住宅地図が最後です。
図に載っている範囲では6軒の民家と「大田公会堂」「大田製茶工場」「山禅きのこ園」があります。
この翌年の版になると、もう民家はなくなり、大部分が「工事中」と書かれています。
一時、キャンプ場が設けられ、ボーイスカウトのキャンプも行われたりしたようですが、1998(平成10)年版から「大津市大田廃棄物最終処分場」の文字が初めて記載されます。

どういう経緯で、この地が最終処分場になってしまったのか、住んでいた方がどんな説明を受けて、どんな気持ちでせっかく開拓したこの地を離れざるを得なくなったのかは、残念ながら本記事作成の時点ではよく分かりません。

ただ、開拓村が開拓されていた当時の様子については幸い、古い新聞を検索している時に偶然、記事を発見しました。バスが開通するより9か月ほど前、1962(昭和37)年1月23日付京都新聞第一滋賀版↓

S37.1.23K1S 開拓村b

「京都府下のチベット」…もっと大変な地域はこの当時も今もたくさんあるでしょうに、すごい書かれようですが、山の麓の禅定寺から、越境して入植した若者たちということです。1日16時間…。通勤時間はほぼ0とはいえ、今の一般的な労働者の2日分を1日で働いてしまう凄まじさです。

ただ、標高三百四十、五十メートルというのは全くの間違いで、実際はその半分程度しかありません。この標高は比叡平や、袴腰山に匹敵するもので、到底それほどないことは想像に難くありません。周囲を囲む山の標高を記者が聞き間違えたか何かでしょう。

これなら、初めて実った一握りの茶の葉、1個の桃が我が子のように思えるでしょう。

『大石のあゆみ』(1970)によると、開拓村を意味する曽束町大田地区の人口は34人、世帯数11となっています(P25)。

↓バス停ポール。石山駅方面しかありませんでした。

IMG_4459_20130128204004.jpg

↓反射板の向こうにバス停があったはずです。

IMG_6890.jpg

↓写りが悪いですが、付近を走行する廃止直前の頃の維中前行き。

IMG_4471_20130128204439.jpg

↓石山駅から450円です。

IMG_4627.jpg

↓現在のこの付近。

IMG_6888.jpg

道がだいぶ拡幅され、この時の雰囲気と比べてもだいぶ変わった気がします。
右手にちらっと写っているのが当時の旧道なのでしょう。

道路が整備されて大型車が走りやすくなったそばからバス路線がなくなるというのは、何と皮肉なことでしょう。

↓見るひともほとんどいなかったであろう標柱

IMG_4460_20130128204438.jpg

↓開拓村跡、即ち大田最終処分場の入口にあるお堂。

IMG_6887.jpg

「耳地蔵」とあります。ネットで検索しても、それらしいものは何もヒットしませんでした。
開拓村を開拓した人々が建立したのでしょうか?峠の守り神として崇められていたのでしょうか。

奥に歩いて行きます。この道は曽束につながっています。

IMG_6896.jpg

開拓村は意外なことに曽束の一部です。

曽束に抜けられる道とは別の方向にも道がありますが、そちらは立ち入り禁止になっています↓

IMG_6907.jpg

↓かつてこの辺りに家や茶園などがあったことなど、全く想像できません。

IMG_6903.jpg

「みんな、茶畑と果樹園に変わった十七ヘクタールの山なみに目をほそめ、すみきった空に希望のヒトミをかがやかせていた」(先の新聞記事より)
その山々です。

IMG_6906.jpg

開拓した土地が、処分場になる……開拓した方々はどんな思いでこの土地を去ったのでしょう?
でも、生活の仕方を根本的に変えない限り、私を含む現代人にとって処分場はなくてはならないものですし、私が出したごみもひょっとしたらここにきているのかもしれないし、ただ感傷に浸っているのもおかしいことなのかもしれません。

40年前、50年前、バスを利用するために、きっとここを歩いたひとがいたはずだと思いながら、バス停跡の方向に戻りました↓

IMG_6913.jpg

ここは大津市の本当に外れなので、あとわずかな距離で京都府です。大津市に別れを告げます。

次は、猿丸神社です。
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コメント
この記事へのコメント
続・禅定寺峠越えの車内から
禅定寺峠越え往復利用で一緒になっていたおばあさんは、開拓村についても話していました。新聞記事と比較すると齟齬もありますが、記録として。

「宇治田原の方から(家を継がない)次男、三男が4人、開拓村に入って開墾した。小田原の方が近いので、小田原の自治会に入れてあげた。しかし、土地が良くなくて、開墾は困難を極め、次第に人が離れていってしまった。」
2013/07/12(金) 00:29:42 | じゅうしまつ | #-[ 編集]
Re: 続・禅定寺峠越えの車内から
じゅうしまつ様、お世話になります。

> 「宇治田原の方から(家を継がない)次男、三男が4人、開拓村に入って開墾した。小田原の方が近いので、小田原の自治会に入れてあげた。しかし、土地が良くなくて、開墾は困難を極め、次第に人が離れていってしまった。」

そうですね。新聞記事とはちょっと違いますね。次第にひとが離れたと言っても、20年ほど前まで数軒の民家が確認できるので、多少の誤解や混同があるのかもしれません。

自治会に入れてあげた…、自治会への加入というのはどういう風に促すんでしょうね。
時代が違えば、自治会どころか、「ワシの村の土地に入ってきて何をしているんや!」と騒ぎになりかねないですね。
2013/07/12(金) 23:01:48 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
ご無沙汰しています
以前に曽束町の件で書き込みをしたものです、

私の同級生にこの太田地区に住んでいた方がいました
そうですか、今は完全に居住者はいないのですね

本文にも書かれていますように、かつてこの地区は
きれいな茶畑がひろがるのどかな地域でした
私のいた地区から当時は未舗装の山道を自転車で往来することができましたので
小学生の頃に何度か行った記憶があります。
いつ頃までか判りませんが、「曽束太田町」と呼ばれていた
時期もあったと思います。

ちなみにですが、この山道の途中にかつては大石小学校の分教場があり
曽束および太田地区の子ども達がそこへ徒歩で通学していたそうです。
私が子供の頃はその分教場の建物が荒れ果てた形で残っていました。

恐らくですが、京阪バスの乗り入れに伴い分教場は廃校になったものと思われます。
2013/08/08(木) 03:08:14 | 7号系統 | #-[ 編集]
Re: ご無沙汰しています
7号系統様、久しぶりのコメントありがとうございます。

> 本文にも書かれていますように、かつてこの地区は
> きれいな茶畑がひろがるのどかな地域でした

その時代が見たかったです。どこかに写真でも残っていないものでしょうか。

> いつ頃までか判りませんが、「曽束太田町」と呼ばれていた
> 時期もあったと思います。

ただ、それはあくまでも地元での通称のはずです。相当数の地図、行政資料に目を通しましたが、そのような地名が正式な住所となった形跡はありません。

> ちなみにですが、この山道の途中にかつては大石小学校の分教場があり
> 曽束および太田地区の子ども達がそこへ徒歩で通学していたそうです。

のようですね。私もどこかでそのように書かれていたのを見たことがあります。今はもう跡形もないのでしょうね。

> 恐らくですが、京阪バスの乗り入れに伴い分教場は廃校になったものと思われます。

残念ながら逆です。分教場を廃校にするために、バスの乗り入れが企図されたのです。もちろん、乗り入れが実現したタイミングで廃校になった、という意味では決して間違いではないと思います。

1964(昭和39)年4月3日付産経新聞第二滋賀版によると、地元PTAと市教委の、複式、複々式学級の解消による教育効果の向上のために、本校との統合を図るという狙いがまずありました。そしてそれをしようとすると、バスが乗り入れられるように道路を拡幅した上で、陸運局の許可を受けなければなりませんでした。ところが、拡幅が遅れて許可が出ず、この年の4月からの統合は無理そうだ、という意味のことが書かれています。

結局実際にバスが乗り入れるのは夏休み中の8月7日です。

来年は開通50周年ですので、バス停の数は少ないですが、ちょっとした特集が組めたらと思います。その節はまた宜しくお願い致します。
2013/08/08(木) 21:01:37 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
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