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青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
平尾 ひらお
所在地:大津市仰木五丁目
開設年月日:
廃止年月日:(京阪バスとして)
付近:平尾自治会館 正法寺 仰木配水池 佐治の手石碑




平尾は、現行の正式な行政地名ではありませんが、上仰木、下仰木、辻ヶ下とともに、仰木荘(おうぎのしょう)四村とされる村のうちの1つです。江戸時代は、幕府領で大津代官の支配地だったと書かれていて(『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』P600)、やはり少なからず大津との結びつきはあったことが窺えます。

平尾は、この沿道でも屈指の味のあるバス停です。

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上仰木行きのポールはなく、堅田側で兼ねています。
ここから比叡山へ、或いは乗り換えがないからと浜大津や大津駅まで乗車するようなひとはまあいなかっただろうと思いますが、もしあったとしたら、反対側で待っておけば停まってくれたのでしょう。

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おばあちゃんが座っていそう。でも、誰もいない―――。

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広告の電話番号は、「0775」時代どころではありません。市内局番が2で始まるということは、坂本・堅田07757時代、調べてみると1974(昭和49)年より前の時代です。南郷洗堰のブロック積みの待合所さえ、最低40年は経っていることがほぼ間違いないのですから、ここもそれと同じくらいか、それ以上の年季が入っていたとしても何もおかしくありません。

因みに、「堅田接骨院」さんは今もあるようで、広告はちゃんと役に立っています(?)。

江若バスのバス停には、よくこういうふうに数字が書かれています。平尾は「23」。整理券番号のようです。

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堅田駅行きが来ました。

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2011(平成23)年に訪れた時は、まだ古いタイプのポールでしたが、2015(平成27)年5月に再訪した時は、既に新しいものに替えられていて、風情が少し損なわれました↓

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ところで、この辺りには仰木の村の成り立ちに関わる、「佐治の手」という伝説があります。

昔の仰木は、今と違って、「岩谷」という低い場所に僅かな農家があったそうです。毎年収穫期になると、盗賊が金品を奪いに来るので、村人は困り果てていました。
そんな折、佐治と文七という二人の侍が村を通りかかり、村の窮状を知り、盗賊を撃退しました。村人が喜んだのも束の間、盗賊は報復のため、佐治の利き手を差し出さなければ村を焼き払う、という難題を突き付けてきました。佐治はこれを知ると、迷わずに自分の左手を切って、村を攻撃から守るために高い場所に移すようにと村人に言い残し、また、文七に後のことを頼んで死んでいったということです。

村人は彼の遺言を守って、今の、高い場所に村を移しました。

そういえば、仰木というのは確かに、日本ではかなり珍しいと思われる、尾根に開けた村です。

ヨーロッパには防御のために、周囲の平地はほとんど全て畑なのに、その真ん中の丘は、下から上までびっしりと家が建っている、というよりも町と一体になった城が築かれる、というケースがあります。
しかし、日本では、外敵の侵入があまり考えられない、農業と言えば水を多く必要とする稲作が大半、という事情から、集落は広い平地か、平地でない場所なら、水が得やすい谷や、水が湧きだすことが多い山裾や台地の端に開けることが多く、わざわざ山の上、丘の上などに集落が形成されることは少ないのです。

この「佐治の手」をかたどったと言われる墓石があるということなので、探したのですが、まあ大変でした。

↓できるだけ正確な位置に合わせました。



仰木交番の真北、仰木中学校の北西ですが、標高差が大きいので、水平距離は近くてもこれらを目標にすると、道が分からなくなると思います。バス停としてはこの平尾が最寄です。平尾バス停の西寄り、仰木から、現在の大津北署仰木交番や仰木の里幼稚園に下りていく道路は、驚いたことに仰木の里の開発が始まっていない1975(昭和50)年時点で、既にほぼ現在の形になっていることが、空中写真で分かりました。まるで盲腸のようになっているのです。仰木の里の開発は1980(昭和55)年が最初とされていて、平成初期頃がピークだと思いますが、それより前からその予兆はあったのですね。

↓途中、配水タンクの南に、こんな石碑がありますが、ここに至る道を見つけるまでに時間がかかりました。

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↓寧ろそのそばにあるこの石碑の方が気になります。

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ネットで検索しても何も出てきませんが、

この池 小石かきよせ 袂に入れて 別れを告げる 涙池

と書かれています。「この池」というのにふさわしい池はありません。「袂」の字が「亻」(にんべん)に見えますが、探してもそんな字がありませんし、意味が通りそうで似た漢字というと「袂(たもと)」しか思い浮かびません。

短歌や俳句にしては字足らず字余りが多すぎるし、「告げる」ということば遣いは新しい(文語終止形なら「告ぐ」、連体形なら「告ぐる」)ので、比較的新しい詩でしょうか?でも、それなりに味わいはあると思います。

昔この場所に池があって、そこの小石を集めて袂に入れて、別れを告げた、という思い出と、考えすぎかもしれませんが、和歌によくあることで、そこに大切なひとと離別・死別した思い出を重ね合わせているのか、と考えたり。
でも、国土地理院のサイトで古い空中写真を見ても、池と呼べそうなものは写っていません。

↓更に進むと「山ノ神」!

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山の神様の背後にまで開発が迫り、もはやここは山ではないのではないかという気がしてきます。
中古住宅がたくさん余って、持ち主不明の空き家や、撤去されない空き家が社会問題となっていて、人口が増えているならともかく減っている時代なのに、わざわざ山や田畑を切り開いてまで新しい家を作るのが矛盾しているように思われて仕方ありません。

…ただ、人間が住んでいるところは結局どこも自然を切り開いたところではあるのですが。

↓やっと見つけました。「佐治の手」

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今も地元の住民が定期的に清掃しているということです。伝説なので、どこまでが事実かよく分からない部分もありますが、何かがあったことは間違いないのでしょう。

↓佐治の手の墓石から後ろを振り返ると豊かな田園に、迫る家並み。

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次は、下仰木です。
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