青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
役場前 やくばまえ
所在地:京都府綴喜郡宇治田原町荒木西出
開設年月日:不明
廃止年月日:不明
付近:宇治田原町役場 宇治田原町立保健センター
キロ程:大宮前から0.5キロ(石山駅から20.0キロ)




宇治田原町の行政の中心、町役場の前まで来ました。石山駅からはピッタリ20キロ地点です。京阪宇治からは18.8キロ、宇治車庫からは19.1キロなので、旧道周りで走行した場合、ほぼ中間地点です。
「役場前」という漠然とした停留所名に、「役場」と言って他にどこがあるのか、ここしかないやないか、という宇治田原自動車時代からの意識が漲っているような気がします。「局前」などもこれに似ています。

但し、この場所に役場ができたのは1959(昭和34)年のことです。『地域とともに60年』には、今はない「荒木」と言うバス停が時折登場しますが、それがこの場所なのかどうかまでは今のところ分かりません。

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10年くらい前は町の公式サイトが、こういっては失礼なのですが小さな町の割にすごい凝っていて、確か、黒ベースの画面で、飛び石の上を静かに歩いていくような動画が最初に現れるという、おしゃれで、一見町の公式サイトに見えないような個性的なものだったと思うのですが、今は全国どこの町村でも見られるような、ありきたりな作りのサイトになってしまい、残念です。

同サイトによると、もともとは2階建てだったそうで3階建てになったのは1975(昭和50)年のことだといいます。そう言われてみると、3階と1,2階で雰囲気が違います。

宇治田原と言えばやっぱりお茶です。町役場の前にも大きなPR看板が。集落の配置図がありますが、「贄田(ねだ)」がありません。贄田のひとが怒らないだろうかと余計な心配をしてしまいます。

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旧道をバスが走っていたころの古い住宅地図には、バス停についてポールの記号ではなく、道に「〇」しか書かれていないので、はっきりとこの地点、とは言いにくいのですが、恐らく制限速度の注意看板があるミラーの辺りにポールがあったのだろうと思います↓

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↓上の写真で右手に写っている商店では、回数券を取り扱っているようです。

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京阪宇治バスの紙式回数券は、京阪バスと共通のものを別にしてずいぶん以前になくなってしまっているのでこの案内自体が貴重だと思います。

次の「郷之口」との間に橋が2本かかっています。

役場から見て手前が田原川にかかる荒木橋で1956(昭和31)年架橋、次が犬打川にかかる本町橋で1955(昭和30)年架橋です。

↓この写真は、荒木橋の上に立って、本町橋の方向を眺めています。本町橋の欄干が奥の方に見えると思います。更に走ると郷之口です。

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橋が近距離で2本も違う川にかかっているのは、この近くでこの二川が合流しているからです。

合流地点に立っているのが、この3つの石碑です↓

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↓中央の目立つ石碑には、「南山城水害記念碑」とあります。

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1953(昭和28)年8月14日から16日にかけて、京都府南部を中心に集中的な豪雨に見舞われ、死者・行方不明者336名、重傷者1336名、被災家屋5676戸、被害総額150億円の大惨事となりました。因みに、現在私たちが普通に使っている「集中豪雨」ということばは、この豪雨を報じる同年8月15日付朝日新聞夕刊↓で用いられたのが最初だと言われています。

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↓右手の石碑には、当時の村長による水害の様子と復興のあらましが記されています。

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拡大して頂くと何とか読めるのですが、旧字体が多い上、句読点がなくて読みにくいので、できるだけ現在の漢字に直して句読点を入れて書くと以下の通りです。

昭和二十八年八月十四日 日没より降り始めたる雨は、同九時頃より雷鳴を加えて愈々(いよいよ)激しく、夜半十二時に至るや、落雷閃光交錯し、豪雨となりて物凄く、危機刻々に近づけり。出水の危険を報ずる警鐘も、雷鳴に阻まれて聞こえず、交通通信は杜絶(=途絶)し、電柱倒壊して全村暗黒となれり。やがて三時三十分頃大字南 東谷の溜池決壊、続いて巨大なる東谷新池、及び平?谷溜池次々に決壊し、奔流は山津波となりて犬打川を下り沿川の人家瞬時に流失せり。特に高橋の上流二百メートル付近の堤防決壊し、奔流は府道郷之口加茂線上二メートルの水深となり、矢の如く下り、更にこの地一帯は田原川の奔流と合して濁流渦を巻き、郷之口上町、荒木、贄田方面の人家に浸水し、家財道具を流出して古今未曾有の大災害となり、全村の荒廃その極みに達したり。
 爾来ここに三星霜当時の(=三年前当時の)村長住田利夫氏、議長田村??氏、副議長増村信次氏、災害復旧対策委員長矢野芳造氏等を中心とし村民一致団結して、廃墟より立上り見事にこれを克服し、更に旧来の面目を一新したり。よってここに記念の碑を建立し、自然の暴威を克服せる全村民の偉業を後世に遺さんとす。 
 昭和三十一年八月十五日 田原村長 谷口宗三郎



石が摩耗していて判読できない部分は「?」にしております。
橋はひょっとすると復興事業の一環として掛けられたのかもしれません。

ただでさえGHQの占領から独立した翌年でまだまだ貧しい時代なのに、そこに追い打ちをかけるようにこんな災害に見舞われて、被災者や復興に携わる人々の苦労はいかばかりであったことでしょう。

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60年前のこの辺りはどんなであったろうか、当時から見ても「とっくの昔」に開通していたはずのバスは、どのくらいの期間運休して、ここを通れるようになったのだろうか、いろいろなことを思いながら、橋を渡って向こうを振り返りました。

次は、郷ノ口です。
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