青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。

舟が唐崎まで着くと、人々はそこで降りて、今はなくなつた老松の枝の下を繞(めぐ)り歩いてから、また汽船に乗つて帰つて来る。日は忘れたが、何んでもそれは盆の日ではなからうか。  (横光利一『琵琶湖』より)



唐崎 からさき
所在地:大津市唐崎一丁目
開設年月日:不明
廃止年月日:(京阪バスとして)1986年前後?
付近:唐崎神社・唐崎の松 ノートルダム教育修道女会唐崎修道院 湖岸緑地唐崎苑(旧同志社唐崎ハウス) メリノールハウス  (現在ないもの)隣松園
キロ程:北唐崎(びわこヘルスセンター前)から0.4キロ




『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』によると、奈良時代より前から見られる古い地名です。

何と言っても、

楽浪(ささなみ)の志賀の辛崎幸(さき)くあれど大宮人の舟待ちかねつ(柿本人麻呂「万葉集」巻1-30)

が有名です。「ささなみ(さざなみ)の」は、「志賀」を導く枕詞です。唐崎は大津京の外港としてにぎわっていたのではなかろうか、という説があります(大津市教育委員会博物館建設室『大津の名勝』1989 P65)

DSC_0526.jpg

唐崎の「崎」と「幸」の畳語がリズムを作り出しています。英語の詩なら、韻を踏むのに相当するのでしょう。
上の歌でも「唐崎」が「辛崎」と書かれていますが、しばしば、「韓崎」「辛崎」などと書かれる例もあったようです。ここには「辛うじて」という意味が重ねられていると吉田金彦は指摘しています。
「唐崎は戦乱の災害からは免れたが、もはやここから天皇や大宮人が船にお乗りになることはない」という発想だそうです(『京都滋賀古代地名を歩く』P188-189)。

何とあの『枕草子』でも「崎は唐崎、三保が崎」と紹介された他、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』、私が高校時代に難渋して匙を投げた菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の『蜻蛉日記』など、びっくりするような有名な古典文学にも登場する名所です。

その割に現在のように「唐崎」という独立した明確な行政地名となったのはつい最近で、1979(昭和54)年7月15日「大津市下阪本町」(現在の下阪本のほか、唐崎などを含む)の一部が住居表示制を施行することになって誕生しました。湖西線の開通に沸いていて、何なら現在の西大津駅より、唐崎駅の方がずっと乗降客が多くなるだろう、などと予想されていて(1974(昭和49)年4月20日付滋賀日日新聞)、一種のフィーバー状態だったのに、南郷方面より3年ほど遅いです。

DSC_0537.jpg

近世以前も、大津市内に限らず、たいていの町名は「南郷村」「赤尾村」のようにもともと村でしたが、「唐崎」は下阪本村の一部でしかなかったようです。

1974(昭和49)年に湖西線が開通して唐崎駅が開業、1977(昭和52)年に大津市立唐崎中学校が、1978(昭和53)年に大津市立唐崎小学校が相次いで開校しますが、この時に正式な「唐崎」という地名はまだなく、逆に駅や学校で、ここは「唐崎」という地域なのだということが再認識されたのかもしれません。

DSC_0524.jpg

松尾芭蕉「辛崎の松は花より朧にて」↑と詠んだ、近江八景の「唐崎の一つ松」も、三島由紀夫『絹と明察』では、

「近江八景のうち、枯れ果てて跡ものこさぬ唐崎の松や、三井寺は割愛して」(P26)



と実につれない扱いをされています。
いや、それどころかそれより更に古い時代、明治末期から大正初めにここを訪れたと思われる田山花袋さえ、

近江八景の一つである。大津町から十五六町、汽船の便もある。かなり大きな見事な松だが、今ではもう大分衰へてゐる。(『復刻版 田山花袋の日本一周 前編 近畿・東海』P417-418)

唐崎の松は枯れつゝある。夜雨などといふ靜かな感じを味ふことは出來ない。(同上P410)



と書いています。

同じく田山花袋『京阪一日の行樂』では、

『唐崎の松は花より朧にて』かう芭蕉の詠んだ松は、今はすつかり枯れて、何處(どこ)にも緣(縁=よすが)を認めることが出來なくなつて了(しま)つてゐた。松は何でも天智天皇の御手植で、中世に枯死したのを秀吉時代に栽(う)え替えたのが今のものであるといふ。南北十間、東西二十七間、數百の支柱でこれを支へて、頗(すこぶ)る奇觀を呈してゐたのに、惜しみても餘りあるものと言はなければならなかつた。この樹はいつも滴が滴つて、暗夜にも、その下に立てば衣がぬるゝといふので、それで唐崎の夜雨と言はれたのであるといふことであつた。(「唐崎の松」(P625)



※読み仮名、新字書き換えは引用者

衰えを通り越してこの段階ではもう枯れてしまっています。実際、調べてみると確かに1921(大正10)年に2代目の唐崎の末が枯死したそうです。

更に、近松秋江(1876-1944)も『湖光島影』(1919)において、 

唐崎の松は花よりおぼろにて
 と大津にゐて詠んでゐる句を見ると、二百年前にはそれが實景(=引用者注 実景)であつたかも知れぬが、今はもう半ば枯れて空しく無慘な殘骸を湖畔に曝してゐる。それは樹齡の定命で自然にさうなつたものか、それならば止むを得ないが、汽船の煤煙で枯れたものとすれば惜しいものである。



と書いています。この当時、既に「環境破壊」が意識されていたのでしょうか。

現在の唐崎の松は2代目の種から育った3代目です↓

DSC_0522.jpg

2代目が枯死するよりずいぶん前から生えていて、現在樹齢250-300年ほどだろうと言われています。

↓唐崎の松はこの「唐崎神社」の境内にあります。

DSC_0521.jpg

「下の病」というのが何とも言えない書き方ですが、これは、京都のある素封家の娘が、婦人病のために嫁ぐことができず、自分だけが取り残されているような絶望感に打ちひしがれて、家を出て唐崎に辿り着き、入水自殺を図り、これを憐れんだ村人が毎年祭をしたことにより、いつの間にか婦人病の神として崇められるようになった、ということのようです。
なぜか彼女は、ここの松はこれから西の方向には茂らないだろう、と言い残しているのだそうです。
本当にそうかな?よく分かりません。

平安の頃から、大石の佐久奈度神社とともに、皇室の災いや穢れを清めるための祓いを行う「七瀬祓所」の1つとして知られていたそうです。

DSC_0523.jpg

↓神社の近くには、なぜか「白鬚」とだけ書かれて途中で途切れたような道標があります。

IMG_4555_20141108231014182.jpg

↓神社の向かいにある「近江かぎや」(寺田物産)。

IMG_4553_2014110823101299e.jpg

ここで有名なのは、このみたらし団子↓

IMG_5655_2014110801062176f.jpg

作り置きはせず、注文を受けてから一回一回焼いていらっしゃいます。
各種メディアでも取り上げられたのか、新聞記事などがびっしり店内の壁に貼られていました。
一般的に「みたらし団子」は京都の下鴨神社が発祥と言われますが、ここでは、唐崎が発祥の地だとしています。
この店の他にも何軒も唐崎神社の参拝客や北国街道を行き交う旅人向けの茶店があったようです。
肝心のお味は素晴らしかったです!焼きたてのみたらし団子なんて食べるのは初めて!

本題のバス停を取り上げられないままですが、長くなりましたので、続きは次回にさせて頂きます。
関連記事
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://contrapunctus.blog103.fc2.com/tb.php/396-e6e5611c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック