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青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
夏に北海道に行った、大きな目的の1つに、北海道新幹線の工事が進むと、見学できなくなると言われている、青函トンネル(1988年開通)の見学がありました。
その前に、青函トンネルの前史ともいえる、青函連絡船の歴史を知りたいと思って、函館駅のすぐ近くにある「青函連絡船記念館 摩周丸」を訪れました。

開館までにはさまざまな紆余曲折があったようですが、今は五稜郭とともに、函館観光の目玉の一つです。

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↓廃止直前の1987(昭和62)年頃のポスターですが、ついここ5年、10年くらいのものかと思われるような美しい写真と、現代的なコピーです。

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でも、どうしても、『津軽海峡冬景色』(石川さゆり)のイメージが強くて、寒くて、寂しくて、暗くて、というイメージが先に立ってしまいます。それはそれで好きなんですけどね。

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青函トンネルの開通前後はほんの小さな子どもで、ニュースなどで見た記憶はありますが、行きたいなんて言ったら、
「何寝ぼけたこと言うとるねん!」
と父親にゲンコツ食らっただろうな。

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青函連絡船の歴史の中で、最も悲しく、最も恐ろしいのは、やはり洞爺丸事故でしょう。子どもの頃に、小学館の『天気と気象』という図鑑で、「洞爺丸台風」について書かれていたのを読んだことがあるので、出来事としては知っていましたが、改めて展示を見ると、その悲惨さに胸が詰まります。

展示の写真の文字は、お読み頂ける大きさにしておりますが、あまり見やすくはないので、時間のない方のために、簡単にご説明しますと、1949(昭和29)年9月26日22:43頃、北海道七重浜(ななえはま)沖で、函館から青森に向かっている途中に座礁した青函連絡船・洞爺丸が大波を受けて横倒しになり、沈没したという事故です。洞爺丸だけで、死者・行方不明者1,155名という大惨事でした。

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天気予報や通信に関わる技術はもちろん今とは比べ物になりませんし、17:00頃、台風の目のような晴れ間がのぞいたことも、不運でした。台風の目に入ったということは、函館の西側が台風の中で比較的風が弱い「可航半円」に入ったことを意味する(逆に台風の右は台風の風に、台風そのものの移動速度が加わって強風になるので「危険半円」という)ので、西に向かって出向することは可能だと判断されてしまったのです。
実際にはその晴れ間は、たまたま台風の雲が切れていただけで、目ではありませんでした。

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これも旅行から帰って気がついたのですが、『氷点』にも、日本の災害史、戦後史、そして交通史を語るのに欠くことのできないこの恐ろしい事故が取り込まれています。

「おかあさん!大変だよ。連絡船がひっくり返ったんだ」
「まあ」
イヤホーンをぬくと緊迫したアナウンサーの声が流れた。
「……突風のため横倒しとなり、女、子どもの多くは甲板に出るひまがなく、船内に水浸しとなった模様で、その生命は絶望視されて居ります。二十七日午前一時百数十名が上磯町七重浜に死体となって発見され、他はいずれも激浪にのまれ水死したものと思われます……」

三浦綾子『氷点(上)』P327 朝日新聞社 1978



もちろん、おかあさん、大変だと言っているのは、主人公・陽子の「兄」徹で、「おかあさん」は辻口夏枝です。この時、辻口啓造は洞爺丸に乗っていたのです…。

「本船は、これより七重浜に座礁致しますが、危険な状態にはなりませんから、乗客は全員救命具をつけ、そのまま船室に居残り、乗組員の指揮に従ってください……」
同上P337



こういうアナウンスは本当に流れたそうです。
啓造は、この直前に急病の二十歳の女性を診ているのですが、その女性の救命具は、ひもが切れてしまいました。そばにいた外国人宣教師は彼女に、

「ワタシノヲアゲマス。(中略)アナタハ、ワタシヨリワカイ。ニッポンハワカイヒトガ、ツクリアゲルノデス」



といって自分の救命具を渡してしまいます。啓造は、決して他のひとのように先を争って救命具を取ったわけではありませんでしたが、しかし、その救命具を宣教師に譲るような気持ちにもなれずに見ていました。その次の瞬間、突然、船が転覆したのです―――。

調べてみると、本当に3人の宣教師が船に乗っていて、救命具を譲ったり、手品で周囲を和ませたりしたという逸話が残っていました。うち2人が亡くなったそうです。

啓造は、『続・氷点』でも登場していることから分かるように、助かった、という設定ですが、洞爺丸についてだけ計算して見ると、乗客乗員1,314中生存者は159名で、生存率は12.1%、乗客だけに限って計算し直すと、実に1割に届きません。生きて帰ることができたのは正に奇跡だったのでしょう。

青函トンネルそのものについては、既に戦前にはその構想が存在しましたが、この事故をきっかけに、天候に左右されないトンネルの必要性がよりいっそう具体的に論じられるようになり、計画が一気に推し進められることになります。

私が訪れた時の函館山は、穏やかに暮れて行きました。

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七重浜には、犠牲者を弔う慰霊碑が今もあるということですので、今度函館に行く時には立ち寄りたいです。

断続的に続けておりました、『氷点』編はこれでひとまず終わります。
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