54年前の今日、1957(昭和32)年9月10日付の読売新聞に掲載された広告↓

この広告の周りには、自動車メーカー、ディーラーや、観光バス会社の広告が並んでいました。
特に、トヨタがまだバスを作っていた時代のようで、大型のボンネットバスの車体のイラストが乗っていて興味深かったです。
なぜ特に「交通産業」と取り出してこのような広告が出たのかはよく分かりませんが、バスの路線図も乗っていてなかなか面白いです。
印刷技術が未発達なせいか、京阪 点線、近江 実線、江若 二重線という、分かりにくい形ですが、近江がやはり一番幅を利かせていることはよく分かります。

この広告の周りには、自動車メーカー、ディーラーや、観光バス会社の広告が並んでいました。
特に、トヨタがまだバスを作っていた時代のようで、大型のボンネットバスの車体のイラストが乗っていて興味深かったです。
なぜ特に「交通産業」と取り出してこのような広告が出たのかはよく分かりませんが、バスの路線図も乗っていてなかなか面白いです。
印刷技術が未発達なせいか、京阪 点線、近江 実線、江若 二重線という、分かりにくい形ですが、近江がやはり一番幅を利かせていることはよく分かります。

大津市北端の山間部 葛川(かつらがわ)までのバス路線は、この時点では安曇川の方からしか走っていませんね。
堅田から葛川に行こうとすると、花折峠が非常に険しく、事故が多かった、というのは、確か、大津市立の各小学校の社会科副読本として使われている「わたしたちの大津」にも載っていました。旧堅田町の一部なので、変な感じがしますが、確かに地形的には安曇川に向かって下って行くのだから、そちらの方が走りやすいんですね。
地元・葛川以外の大津市立の小中学校を出た方なら、恐らく大抵小学校と中学校各1回ずつ「大津市立葛川少年自然の家」に宿泊学習に行くと思いますが、その時も、安曇川回りだった記憶があります。
因みに堅田から葛川に行く江若バス、及び京都から葛川に行く京都バスは、この広告が出たおよそ2年後の昭和34年に、同時に認可されています。
この年の5月に開通した、多賀町の川相-萱原間の路線は忘れられていたのか、書かれていません。1957(昭和32)年5月18日付滋賀日日新聞↓

最初に引用した広告の地図の北東の方をご覧下さい。「川相」の文字が見えると思いますが、実際にはこのさらに東に路線が延びています。
因みにこの「川相」という地名、何と読むと思いますか?当時この新聞記事を読んだひとも、多賀町近辺の在住・出身者以外ほとんど全て「かわい」と読んでいたでしょうけど、これで何と「かわない」と読みます。
パソコンで「かわない」と打ってから「人名地名」を選択するコマンドが出る場合は、そこを開いて下さい。「川相」が出てくるので、えらいもんです。大津市の「田上」(たなかみ)でさえ出てこないのに。
多賀は難しい地名の宝庫です。
「仏ケ後」「水谷」「桃原」「甲頭倉」「大君ケ畑」……全部ちゃんと変換されるのがすごい…、というか、怖い…。
答えはまた次回にしましょう。最近は何でもネットで簡単に検索できて面白くないのですが、よかったらコメントでご回答下さい。
私は、近江鉄道バスの場合、大津営業所管内か、それに関わりのあるところしかほとんどコピーしていないのに、なぜこの路線に限ってコピーしたのか、よく覚えていませんが、ボンネットバスの写真があったからでしょうか。地元の方の喜びが伝わってくるからでしょうか。
なんしか正に、山の奥まで「伸びゆく交通産業」、日本全体が、結果的によかったか悪かったかは一概に言えませんが、とにかく前へ前へ、上へ上へと伸びようとしていた時代です。
広告の地図を見て、京阪バスに限らず、面白いなと思われた部分、お気づきのことがある方、ぜひコメントやメールを頂ければと思います。
堅田から葛川に行こうとすると、花折峠が非常に険しく、事故が多かった、というのは、確か、大津市立の各小学校の社会科副読本として使われている「わたしたちの大津」にも載っていました。旧堅田町の一部なので、変な感じがしますが、確かに地形的には安曇川に向かって下って行くのだから、そちらの方が走りやすいんですね。
地元・葛川以外の大津市立の小中学校を出た方なら、恐らく大抵小学校と中学校各1回ずつ「大津市立葛川少年自然の家」に宿泊学習に行くと思いますが、その時も、安曇川回りだった記憶があります。
因みに堅田から葛川に行く江若バス、及び京都から葛川に行く京都バスは、この広告が出たおよそ2年後の昭和34年に、同時に認可されています。
この年の5月に開通した、多賀町の川相-萱原間の路線は忘れられていたのか、書かれていません。1957(昭和32)年5月18日付滋賀日日新聞↓

最初に引用した広告の地図の北東の方をご覧下さい。「川相」の文字が見えると思いますが、実際にはこのさらに東に路線が延びています。
因みにこの「川相」という地名、何と読むと思いますか?当時この新聞記事を読んだひとも、多賀町近辺の在住・出身者以外ほとんど全て「かわい」と読んでいたでしょうけど、これで何と「かわない」と読みます。
パソコンで「かわない」と打ってから「人名地名」を選択するコマンドが出る場合は、そこを開いて下さい。「川相」が出てくるので、えらいもんです。大津市の「田上」(たなかみ)でさえ出てこないのに。
多賀は難しい地名の宝庫です。
「仏ケ後」「水谷」「桃原」「甲頭倉」「大君ケ畑」……全部ちゃんと変換されるのがすごい…、というか、怖い…。
答えはまた次回にしましょう。最近は何でもネットで簡単に検索できて面白くないのですが、よかったらコメントでご回答下さい。
私は、近江鉄道バスの場合、大津営業所管内か、それに関わりのあるところしかほとんどコピーしていないのに、なぜこの路線に限ってコピーしたのか、よく覚えていませんが、ボンネットバスの写真があったからでしょうか。地元の方の喜びが伝わってくるからでしょうか。
なんしか正に、山の奥まで「伸びゆく交通産業」、日本全体が、結果的によかったか悪かったかは一概に言えませんが、とにかく前へ前へ、上へ上へと伸びようとしていた時代です。
広告の地図を見て、京阪バスに限らず、面白いなと思われた部分、お気づきのことがある方、ぜひコメントやメールを頂ければと思います。
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