青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
 終戦の話を書いた直後なので、『京阪バス五十年史』(1972 以下五十年史)を参考に、戦時中のバス、特に京阪バスの事情について書き、かつ、京津国道線調査の前書ともしたいと思います。
 日本の第二次世界大戦への参戦は1939(昭和14)年ですが、1931(昭和6)年の満州事変や、1937(昭和12)年の日中戦争など、戦争状態がずっと続いており、慢性的に物資不足でした。こうした中、不要不急の路線を減回、休止、廃止したりするなど、結構会社が自発的に動いていたようです。実際、この時期の「五十年史」の年表には、路線の廃止や減回の記述はあっても、新設や増便はほとんどありません。
 1941(昭和16)年9月、バスに対するガソリンの配給が停止される頃には、もはや他の物資も手に入らない状況で、また、運転手が応召されて、運転を維持するのも困難な状態だったようです。
 ガソリンが手に入らなくて何を燃やすのかということですが、木炭を使うというのが一般的だったようです。
しかし、入出庫時の清掃に手間がかかり、馬力もなかったため、運転や維持管理は大変だったようです。それでも、軍需工場への通勤などのため、最低限必要な路線は京阪バスに限らず、どこの会社も必死に維持していたようです。

「五十年史」によると、
「遂に十七年八月、時の監督局長佐藤栄作から各地方長官にあてて、乗合自動車事業を各府県別に統合するよう通牒が発せられた」(P64-65)
とあります。「佐藤栄作」の部分は原文でも太字でした。これを読んで、まさかと思って調べましたが、やはりこの佐藤栄作は、後にノーベル平和賞を受賞した、あの佐藤栄作元首相のことでした。彼は当時鉄道省の監督局長で、戦後に運輸事務次官になります。この当時は、バスも鉄道省が管轄でした。
「このとき統合されたバス事業者が、現在のバス事業界の基盤となっている」(P65)
とありますが、確かに、今のバス会社の多くが、1つの府県内で主要エリアが完結しているので、なるほど、と思います。
 ただ、京阪バスはこの事業統合からは除外された、と書かれています。なぜなのかはここを読んでもよく分かりませんが、路線網や規模から、各府県ごとに完結させることが不可能だと判断されたのでしょう。阪急や東武などもこれに近いケースかもしれません。そのお蔭で、今でも、守口市駅前でも、そこから直線距離で6、70キロほども離れていて、電車で1時間では行き来できない石山駅前でも、同じ会社の、同じ柄の京阪バスを見ることができるわけですね。

 社史の年表を見ると、京阪バス本社が1945(昭和20)年8月15日に四条大宮に移転登記を完了していて、わざわざこんな日に不思議だな、と思ったものですが、これは全く偶然のようです。
 この日から、どの路線を再開するのか、傷みに傷んだ車両をどうするのか、という新たな課題に直面したわけですが、同社は、滋賀県知事から「浜大津-三条大橋間を復活実施され度し」という通牒と、バス2台の貸与を受け、翌年から京津国道線の運転を再開します。
「京津国道線こそは、戦後の再開路線の第一号となったのである」(P71)
と誇らかに書かれていて、実際この後しばらくの間、京津国道線は増便を繰り返す重要な路線に成長します。しかし、その分断や寂しい末期―――60年後の山科駅-浜大津間の廃止――を知っている私は、そんなに大事に思われていたのに、あっけない幕切れだったなあと思い返すのです。

A-3675 京津国道線最終写真は、A-3675 2006(平成18)年6月30日 浜大津から山科駅へ向かう直前、最後の最後の便です。この車両ももうなくなってしまいました。

 京津国道線は、京阪バスの歴史の中でも、非常に重要な路線の1つですので、今後も断続的に取り上げようと思います。
関連記事
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://contrapunctus.blog103.fc2.com/tb.php/20-2058c1a5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック