青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
帝産湖南交通のバス停の路線図を見て目立つのは、何といっても、「日電前」「都築紡」「大津署前」と書かれた石山駅より北の点線部分。休止路線でしょうか?特定輸送でしょうか?

ssIMG_3522.jpg

当該部分拡大↓

IMG_3521 (2)

都築紡績の石山工場は昭和30年11月に操業するのですが、今は影も形もないようで、どこにあったのかよくわかりません。それどころか、2003(平成15)年11月に会社更生法の適用を申請する事態に至ってしまったようです。

「日電」は多分NECですね。「大津署前」が末端になっていますが、あんなところでどうターンしたのか、どうしてそんな中途半端な終点なのか、不思議です。また、途中の停留所もありません。

東レの南門の前の狭い道を、かつてバスが走っていたというのは聞いたことがありますが、ここでも一応点線で表されています。また、同じく東レの瀬田工場の前には実線で「東レ瀬田」?そんなのあったかな…。南門も私の知らない時代になくなってしまったのだと思いますが、瀬田なんて聞いたこともありません。

さすがに、昭和46、47年頃にはあったことが新聞記事と記事中の写真でもはっきりとしている大石の小田原(関ノ津峠を越えていたらしい)は、もうこの路線図には載っていません。

話が飛びますが、80-90年代初めに「太子線」という幕があったのもずっと気になっています。「太子」は大津市田上太子町(たなかみたいしちょう)、現在の太子1-2丁目のことですが、太子経由の石山駅-田上車庫間の路線にはそれ用の幕がちゃんとあるので、それとは全く別物です。

帝産は、近江や京阪以上に情報が少なく、路線バス全盛期の昭和30-40年代でさえ、滅多に新聞記事が出ず、主力である田上(たなかみ)方面のバス路線がいつごろ、どういう経緯で開通したのかといった基本的なことすら、何も分かりません。
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コメント
この記事へのコメント
帝産バス東レ線
>東レの南門の前の狭い道を、かつてバスが走っていたというのは聞いたことがありますが、ここでも一応点線で表されています。

この東レ線の路線図は、私の記憶が正しいならば、1992年4月(or1992年10月or1993年4月)から1994年3月(or1995年3月)までの2年間(or2.5年間or3年間)のものと思います。

その直前までの系統としては、(1)石山駅〜唐橋前〜中研前〜園山〜晴園寮前〜上別保〜石山駅、(2)石山駅〜唐橋前〜中研前〜永大団地〜晴園寮前〜上別保〜石山駅、(3)石山駅〜唐橋前〜中研前〜永大団地〜観音口〜晴園寮前〜上別保〜石山駅、(4)石山駅〜唐橋前〜中研前〜永大団地〜晴園寮前〜園山〜中研前〜唐橋前〜石山駅、(5)園山〜中研前〜唐橋前〜石山駅でした。このうち、(1)は朝に5本と夕方に1本、(5)は夕方に1本で、事実上東レの通勤用のバスでした。
♯宮ノ内と東レ南門前の間で帝産バス同士がすれ違う時は、宮ノ内の交差点より二つ目の十字路から数m進んだ所と決まっていました。

1994年4月(or1995年4月)に、昼間の間だけ走っていた栄町経由のバスが無くなって国道経由の路線となりました。そしてその後すべてのバスが焼野を経由するようになり、さらには上別保も通らない現在の経路となりました。

♯帝産バス東レ線のバスが国道に出る所が、別保三丁目交差点(美崎町交差点が出来る1981年頃まで)、美崎町交差点(1981年頃〜1999年頃まで)、別保二丁目交差点(1999年頃〜現在)と徐々に石山駅に近づいてきているのに気付きます。

1972年の段階では、アパート前、永大団地、焼野口のバス停はなく、焼野口、アパート前、永大団地の順にバス停が出来た、と以前母が言っていました。
また、1979年頃までは、ヤケノ行きだけは、観音口でUターンしていたために、車掌が乗車するツーマン体制であったことを覚えています。
2014/07/10(木) 01:01:53 | むっくん | #pzlAAE2A[ 編集]
Re: 帝産バス東レ線
むっくん様、コメントありがとうございます。帝産の情報は少ないので助かります。

> この東レ線の路線図は、私の記憶が正しいならば、1992年4月(or1992年10月or1993年4月)から1994年3月(or1995年3月)までの2年間(or2.5年間or3年間)のものと思います。




> ♯宮ノ内と東レ南門前の間で帝産バス同士がすれ違う時は、宮ノ内の交差点より二つ目の十字路から数m進んだ所と決まっていました。

どんな場所なんでしょうね。今も離合できそうな雰囲気だったら、見てみたいですね。

> 1994年4月(or1995年4月)に、昼間の間だけ走っていた栄町経由のバスが無くなって国道経由の路線となりました。そしてその後すべてのバスが焼野を経由するようになり、さらには上別保も通らない現在の経路となりました。

栄町経由のバスはもっと後の時代まであった気がするのですが…。私の方でももう一度調べてみます。

> 1972年の段階では、アパート前、永大団地、焼野口のバス停はなく、焼野口、アパート前、永大団地の順にバス停が出来た、と以前母が言っていました。

手許にある1970(昭和45)年の『奈良県・滋賀県市街地図集』(大阪人文社)では確かに、それらのバス停どころか、東レ構内にバス路線すら全くない状態ですね。一方で「東洋精器」は既に路線が存在しています。
1972(昭和47)年の『大津・宇治市街図』になると途中のバス停の有無は記載がなくて(本当にバス停がなかったのか略されているのか判断できない)よく分かりませんが、「焼野」だけはあります。
また、45年の地図には上別保に帝産の営業所の記載があり、これは古い住宅地図とも一致します。今GSがあるところです。

> また、1979年頃までは、ヤケノ行きだけは、観音口でUターンしていたために、車掌が乗車するツーマン体制であったことを覚えています。

私も本当につい最近、初めて焼野の方に上がったのですが、すごいところですね。今は観音口で折り返すのでなく、循環というのか、連続して運転しているのでターンの必要がないんですね。


2014/07/10(木) 20:27:16 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
都築紡績から湖南高校行き
石山の都築紡績についてなにかないかな・・・と検索していてたどり着きました。面白く読ませていただいております。随分遅れコメントですが・・・
今から35年ほど前、粟中の授業中、都築紡績の正門に、湖南高校の幕を出した帝産バスを見た記憶があります。湖南高校?どこにあるの?と思ってました。当時湖南高校は昼間二部制を採ってましたから、都築紡績から仕事の終わった従業員を送るバスだったのでしょう。ただ1回しか見た記憶がないのです。窓際しか見えないのもあったのかもしれませんが。
日電前(NEC前)停留所も、5/20からローム滋賀前に名前が変わり、時の流れを感じます。
2016/06/07(火) 21:19:31 | もーさん | #-[ 編集]
Re: 都築紡績から湖南高校行き
もーさん様、「遅れコメント」でも私自身が復習するよい機会です。ありがとうございました。

> 今から35年ほど前、粟中の授業中、都築紡績の正門に、湖南高校の幕を出した帝産バスを見た記憶があります。

35年前!随分古い話ですね。帝産はよく言えば古い車を大事にする会社のようなので、今となっては信じられないような古いバスでしょうね。

>湖南高校?どこにあるの?と思ってました。

私にとっては寧ろ、都築紡績こそ、どこだろう、という感じです。石山駅から北と南で「なじみ」に大きな断層があって、JRの向こう側というのはほとんど知らないのです。古い地図を見ても、そんなのあったかな、という感じで実感が湧きません。
①湖南高校、②湖南高校……という表示がありましたが、ある程度集団的にまとまって勤めていて、番号が勤め先を表しているのか、それか、1号車、2号車という意味なのか、私も小学生の頃で、そんなにじっくり観察していなかったのでよく分かりません。

湖南高校こそ情報がないですね。ネットで検索しても、これといったことが出てきません。大津清陵高校の公式HPの沿革のところにさえ出てきません。同じ場所にあったのにどうしてその歴史を無視するような書き方をするのか、納得がいきません。湖南高校の歴史があって、清陵高校があるのではないのでしょうか。それを触れられたくない黒歴史ででもあるかのように何も書かないというのは、卒業生に対して非礼な気がします。

> 日電前(NEC前)停留所も、5/20からローム滋賀前に名前が変わり、時の流れを感じます。

そうですね。そういえばいくつか地味に名前の変わった停留所があるので、「取材」し直さないといけないと思っていたところでした。
2016/06/07(火) 22:30:43 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
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