青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
『京阪バス五十年史』の年表によると、50年前の今日、1961(昭和36)年2月20日「外畑線 赤川-上千町間運輸開始」とあり、その4日前、16日に「臨時免許」が出たということが分かります。しかし、翌1962(昭和37)年9月3日に「千町線、赤川-上千町間2.0km路線延長免許」とあり、矛盾しています。

仮説ですが、昭和36年の免許はあくまでも臨時免許で、37年の方が正式な免許だったのかと思います。

残念なことに、上千町行きの開通を伝える新聞記事は、見つかっておりませんが、少なくとも40~50年という、京阪バスの全路線中でもかなり古い立派な歴史を持った路線らしいことは分かります。

この路線について、昨年9月3日付拙稿懐かしの8号経路 上千町行き ①運転開始時期の謎で「最重要研究課題路線」なんて恥ずかしいことを書きましたが、以前、JRバスや京阪宇治交通の写真でご協力頂いた、読者のまんたろう様から、何と見たい見たいと願っていた…

8号経路時代の廃止区間の懐かしい写真をご提供頂きましたので、特に代表的な3枚をアップさせて頂きます。インターネット上での大津・8号経路の写真公開は、恐らく史上初だと思います。



南郷中学校系統と共存していた、1989年版の昭文社の地図が分かりやすいので、下に示しました。が付いているのが撮影地です。

の西、つまり左から順番に並べています。2枚1セットで、それぞれの2枚目が、現在の様子です。できるだけ撮影位置に忠実にしたつもりです。


南郷2

最終運行日、1993(平成5)年6月19日の撮影、上千町-下千町間です。

住宅地の合間を走る2 上千町~下千町 6月19日 8:04頃

ssIMG_3244 2
こちらも上の写真と同じ日の撮影です。少し手ぶれしていますが、どんなに狭い道のりだったかがよく分かります。エアロスターKが本当に窮屈そうです。上千町行きの方向幕には、アナウンスでは一切触れられませんが、(岩間口)と必ず併記されていました。車両はA-1681、千町口から下千町にかけての、下千町寄り、道幅が最も狭いところです。

細道を進む1 千町口~下千町 6月19日18:19頃

IMG_3461.jpg



この路線のハイライトの1つ、ぜひ見たいと願っていた、赤川の角から国道422号線に出てくるシーン!朝に1本か2本だけの市民病院前行き。1990(平成2)年5月18日撮影、社番A-1537です。

ssH2.5.18 千町口‐赤川



この「市民病院前」行きは、8号経路の大きな謎の1つです。
現在の14号経路が運転を開始するまで、大石小学校からでさえ朝のラッシュ時に、石山駅をまたがって北に向かうバスは1本もなかったのに、どうしてこんな1日に10本運転されるかどうかという狭隘路線から、天下の国道1号線に出て行く路線があったのでしょう?

ラッシュ時に石山駅の南北を直通するといえば、あとは現在の11号経路の前身22号経路(石山団地-市民病院前)ですが、これは1984年版の「京阪時刻表」になくて、1985年版に載っていることから、1984年から85年にかけて開通したことがほぼ明らかです。しかし8号経路は恐らくもっと古いのです。

因みに昭和39年の「全国バス路線便覧」を見れば、浜大津発上千町行きの便があったことも分かります。

末筆ながら、まんたろう様、ご協力ありがとうございます。
他にも、この路線について、想い出のある方、情報をお持ちの方、或いは各バス停の時刻表のメモをお持ちの方(いつの時代でもかまいません)、いらっしゃいましたら、個人情報は厳守しますので、お気軽にメールやコメントをお寄せ下さい。
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コメント
この記事へのコメント
No title
上千町(わたしはセンジョウと読みます)行きがワンマン化されたとき、当時は珍しくバックカメラ付きの車両が限定運用されてました。
まだ、冷房車のブルドッグが導入される前、当時主力のバス窓の車ではなく、また、初めて方向幕の横に「ワンマン」と表示されなくなった車両でした。
ワンマン化されたとはいえ、狭い上千町終点で方向転換する時の誘導員?のおっちゃんが後ろに乗ってました。
市民病院⇔上千町系統が何故あるのか、小学生の私も疑問でしたが、当時の私の解釈は
①限定運用の車の出入庫のため。(市民病院前に大津営業所があった。)
②高齢の方が多い(失礼かもしれませんが)千町地区が市民病院直通の路線を要望した。
でした。
この限定運用の車は、曽束行き⑦系統、国分団地行き③系統にも充当されていたように思います。石山団地には一日二本にまで減っていた国分経由④系統でくるくらいでした。いずれも最後までツーマンだった路線です。
車両の形式には疎いので、あいまいな書き込みになり、申し訳ありません。
どなたかフォローしてくださったら幸いです。
2011/02/21(月) 01:08:27 | K2 | #-[ 編集]
Re: No title
K2さま、早速食いついて下さって(失礼…)ありがとうございます。

> 上千町(わたしはセンジョウと読みます)行きがワンマン化されたとき、当時は珍しくバックカメラ付きの車両が限定運用されてました。

路線バスというのは、公道上では誘導員がいないとバックできないのが原則で、バックカメラは、誘導員がいなくてもバックできる、例外的な条件ということのみたいですね。また調べておきます。でも上千町の場合は、カメラが取り付けられても、おっしゃるように誘導員がいましたし、今もいます。
大阪の京阪バスは、バックカメラがない方が普通だということを、ここ数年で知って、ないというのはどういうこと?何でないの?なかったらバックできひんやん、と次々と疑問がわき上がったのですが、そもそも通常、公道でバックするような場所も必要性もないということのようですね。

> 市民病院⇔上千町系統が何故あるのか、小学生の私も疑問でしたが、当時の私の解釈は
> ①限定運用の車の出入庫のため。(市民病院前に大津営業所があった。)
> ②高齢の方が多い(失礼かもしれませんが)千町地区が市民病院直通の路線を要望した。
> でした。

なるほど。私が知っている時代には、もう全てバックカメラが取り付けられているので、限定運用ではありませんでしたが、その名残というのはあり得ますね。
②について、高齢化率でいえば大石もそれなりだろうと思いますし、難しいところですが、あんな道を昭和30年代から生き残ってきたということは、かなり自治会の働きかけもあったかもしれませんね。

> この限定運用の車は、曽束行き⑦系統、国分団地行き③系統にも充当されていたように思います。石山団地には一日二本にまで減っていた国分経由④系統でくるくらいでした。いずれも最後までツーマンだった路線です。
> 車両の形式には疎いので、あいまいな書き込みになり、申し訳ありません。
> どなたかフォローしてくださったら幸いです。

私も車両そのものにはあまり関心がなく、「ここがこうで、こんなで、どこそこでよく走っていて…」とかしか言えなくて、車をやっている方に閉口されるので、写真とかあると助かりますね。

国分経由の石山団地が、4号経路なんですよね。大津営業所が国分に移転した1993年に、新しく開通したとみんな思っていますが、国分バイパスに載せ替えられただけで、実は「復活」なんですよね。
2011/02/21(月) 22:27:07 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
また食いつきます(笑)
私の勝手な推測ですが、曽束・大石から市民病院直通がなかったのは。
①大石には東大石淀町バス停前に病院があった(今もありますか?)ので、市民病院直通の需要は少なかった。
②大石は戦後しばらく(年代は忘れました。)栗太郡大石村だったので、高齢の方に大津市民意識はなく、ゆえに市民病院への通院は少なかった。
ではないでしょうか。

④系統国分経由は末期には一日朝、夕二本、朝は九時台、夕は三時か四時台だったとおもいます。いつもガラガラで子供心に「免許維持路線」だろうと思ってました。そんな言葉は知りませんでしたが。
私が物心ついたころ(昭和40年代末期)は、国分経由と石山寺経由の本数は互角だったと思います。何故、初代?国分経由が廃れたのか、以下またまた勝手な推測です。
①石山寺経由がほとんどワンマンだったのに、国分経由はツーマンでした。(女性の車掌さんもいました。)ワンマン化するには道が狭くて無理イコール人件費がかさむ。
②、マイカーも増えてきて、当時の狭い国分の道で定時運行が難しくなった。
③当時は京阪電車の利用客も多く、石山寺を通る路線のほうがお客さんも多かった。(私の家も大阪へ行くのはほとんど京阪でした。)

「免許維持路線」といえば、山科地区の京阪バスの旅客流動調査のバイトをしたとき、一日数往復(一往復?)しかない京都⇔奈良線は何故お客さんがいないのに廃止にならないのか運転手さんに聞いたことがあります。運転手さんが「政治的理由や!一度廃止したら復活したくてもなかなか認可がおりひんやろ!」と言われたのが印象的でした。奈良まで乗りこんだバイトの人らはドライブみたいでラッキーと言ってました。
20年近く前の話です。

以上長文乱文失礼しました。
2011/02/22(火) 00:03:12 | K2 | #-[ 編集]
Re: また食いつきます(笑)
はい、食いついて頂いてありがとうございますm(__)m

> 私の勝手な推測ですが、曽束・大石から市民病院直通がなかったのは。
> ①大石には東大石淀町バス停前に病院があった(今もありますか?)ので、市民病院直通の需要は少なかった。

ああ、中山病院ですね。今は中山病院本体は介護療養型に移行していて、外来は系列の南大津クリニックでやっているようです。そんなに昔からあるのか?と思って調べたら、何とバスより古く、大正にはもうあったそうで、驚きです。

> ②大石は戦後しばらく(年代は忘れました。)栗太郡大石村だったので、高齢の方に大津市民意識はなく、ゆえに市民病院への通院は少なかった。

戦後しばらくといっても合併は昭和26年ですし、少なくとも昭和30年の段階で既に浜大津直通が走っているので、ごめんなさい、その説はちょっと弱いと思います。そもそも石山駅行きがあるのも、大津市と合併したのも、石山、大津方面に出向かないと、何もできないし、生活のかなりの部分を依存しているから、という理由だったはずです。

> ④系統国分経由は末期には一日朝、夕二本、朝は九時台、夕は三時か四時台だったとおもいます。いつもガラガラで子供心に「免許維持路線」だろうと思ってました。そんな言葉は知りませんでしたが。

その時刻表が見たいんですけど、どこかの家の物置に埋もれていたりしないかな…(遠い目…)

> 私が物心ついたころ(昭和40年代末期)は、国分経由と石山寺経由の本数は互角だったと思います。

本数が互角だったということは、今と同じような状態ですね。これは勉強になります。
確かに同じ区間を走らせるなら、ワンマンの方が効率がいいのにきまっていますし、石山駅も京阪石山寺も停まれるに越したことはないですね。石山団地くらい、大口の利用があるところなら、石山寺の裏側の人口が希薄なところを通りぬけても問題はなさそうに思っていたのですが、おっしゃるような事情を考えれば、厳しいですね。

> 「免許維持路線」といえば、山科地区の京阪バスの旅客流動調査のバイトをしたとき、一日数往復(一往復?)しかない京都⇔奈良線は何故お客さんがいないのに廃止にならないのか運転手さんに聞いたことがあります。運転手さんが「政治的理由や!一度廃止したら復活したくてもなかなか認可がおりひんやろ!」と言われたのが印象的でした。奈良まで乗りこんだバイトの人らはドライブみたいでラッキーと言ってました。


私も乗っておくべきでしたね。ある程度歳を重ねて行動半径が広がる前、或いはインターネットが普及して、簡単に情報が得られる前に、気になっていたところは、たいてい消えていましたね。
2011/02/22(火) 00:35:45 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
はじめまして
京阪バスの懐かしい情報を辿っていたらこのページにたどり着きました

HN通り、中学校卒業まで7号系統の路線沿いに住んでいた田舎者です(笑

さて、この上千町系統の画像、懐かしさのあまり飛び上がりそうでした

といいますのも、私は旧南郷中学(現石山中学)の卒業生であり、この8号系統に乗って市民病院まで行った事があるからです。

当時、病弱だった私は、午後から学校を早退して市民病院へ通っていた時期があるのです

その際、なんとなく気になっていたこの8号系統の市民病院行きに乗車したことが数回あります

で、この謎の路線の存在意義なのですが、他の方も書いてある様に、大津営業所への回送、というのに大きな意味があったかと思います。

7号系統曽束行き、と8号系統はかつてツーマン運転をしていた関係で、石山駅で折り返しダイヤを組んでいたはずです

記憶はおぼろげなのですが、7号の曽束発早朝便が石山駅まで到着すると
そのまま方向幕を変更して上千町行きになっていたかと・・・。

更にその折り返しが市民病院行きとなっていたはずです

お昼の便もその様な運用になっていた様な・・・。

私が小学校に上がる頃にはツーマン運転は解消されていたのですが、このダイヤは変わりませんでした、確か・・・。


また何か想い出したら、書き込みにお邪魔したいと思いますので、よろしくお願いします。
2011/02/28(月) 01:09:42 | 7号系統 | #74M0PgTc[ 編集]
初めまして
7号系統様 初めまして、コメントありがとうございます。バスそのものに詳しい方ももちろん大歓迎なんですが、沿線住民(出身)の方からの情報や思い出話を大切にしたいので、7号系統様のような方のご投稿、大歓迎です。

> 京阪バスの懐かしい情報を辿っていたらこのページにたどり着きました

そういう懐かしい情報はなかなかありませんでしょう?京阪バス、というと人口の母数の問題もあって、大阪方面が中心になってしまいますし、車両に詳しい方は多いんですが、路線をやっているひとはあまりいないんですよ。で、ネットで検索できるようなことでは満足がいかなくなって、自分で昭和20年代からの各新聞の滋賀版などを徹底的に調査して、路線バス関係の記事を捜す、というヒマなことを始めてしまい、その延長でこのブログをやっているんです。

> HN通り、中学校卒業まで7号系統の路線沿いに住んでいた田舎者です(笑

曽束か淀ですねw ご覧になったかもしれませんが、曽束の写真は9月5日付拙稿http://contrapunctus.blog103.fc2.com/blog-entry-62.htmlにありますので、是非ご覧下さい。撮影地の現在の場所はあそこでよさそうでしょうか?また、現在の「曽束中」のバス停が当時は「曽束」終点だったのでは?という私の説に誤りはございませんでしょうか?

> 当時、病弱だった私は、午後から学校を早退して市民病院へ通っていた時期があるのです
> その際、なんとなく気になっていたこの8号系統の市民病院行きに乗車したことが数回あります

国道経由の浜大津行きもあったでしょうに、わざわざ昼に1本だけあった市民病院行きに乗られるなんてなんてマニアックな(笑)

路線設定理由は、確かに、他の方もおっしゃる通り、固定運用であった時代の名残で、ワンマンになり固定運用が外れてからも、市民病院直通が入出庫の関係で残った、というのが一番可能性が高いですね。松本清張じゃないけど「点と線」が結びつきそうで嬉しいです。

> 7号系統曽束行き、と8号系統はかつてツーマン運転をしていた関係で、石山駅で折り返しダイヤを組んでいたはずです

遠く隔たっていて、番号だけ1番違いなものの、直接何の関係もないようですが、そう言われてみればどちらも最後までツーマン運転が残っていたところで、運用は共通だったのかもしれませんね。
それにしてもよく観察されていたんですね。私も勉強しないといけません。

今後もコメントやメールをお待ちしていますので、また宜しくお願いします。
2011/02/28(月) 10:57:19 | 喜撰猿丸 | #HdXTMQ3I[ 編集]
こちらこそ
突然現れて、懐かしさのあまり色んなところにResを
つけまくって申し訳ありません

>それにしてもよく観察されていたんですね。私も勉強しないといけません。

恐れ入ります

私は、幼少の頃から本当は鉄道が好きだったのです
ところが済んでいる地域は鉄道とはかけ離れた地域だった事もあり
身近なバスに関心を寄せていたのです

ただ残念な事に、当時カメラの趣味を持ち合わせていなかった為
(あっても現像代が高く、小中学生には無理な事でした)
写真が一枚も手元に無いのが、非常に残念です

あるのは記憶のみ・・・w

今考えると、石山を中心としたバス系統というのは
会社数、路線数ともに他に類をみない、稀有な存在でしたよね

80年代前半の石山周辺の事なら、京阪バス・近江バス・帝産バス
ともに良く覚えておりますので、わかる範囲でお答えしたいと思います

今後ともよろしくお願いします
2011/02/28(月) 22:50:07 | 7号系統 | #74M0PgTc[ 編集]
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