青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。

所要あつて、久しぶりに岩南線バスに乗つた。これは戦時中から戦争直後のころにかけて、とてもひどいがたがたバスだつた。そのころは、どこのバスもくたくたになつて、特にここのはお話にならないほどひどかつた。一コースの間でも、タイヤを修繕するとエンジンがとまり、エンジンをなほすとまたとまるといつた工合である。窓硝子も大抵欠け落ちて、セロハン紙や板ぎれで窓を塞いでゐた。(井伏鱒二「乗合自動車」1952)



早速「岩南線」を検索してみたというそこのあなた!残念でした(>_<)私もやってみましたが、この小説に関係しそうなことは何も出てきません。作者 井伏鱒二が広島出身であること、文中に「せきしゆうかいどう」と刻んだ石の道標が登場すること、「岩」という文字から、岩国付近を連想しましたが、かなりデフォルメされているようです。しかし、事実というよりは、60~70年前の現実と真実を、彼は淡々と、簡潔に描いています。

京津国道線の運転再開時に、滋賀県から貸与された2台のうちの1台も、やはり木炭車でした(「京阪バス五十年史」)が、この小説に出てくるバスも木炭車でした。エンジンの故障でバスが2時間ほども遅れてやってきて、来たと思ったら、エンジンがまた動かなくなってしまい、乗客みんなで後ろを押します。

乗客がバスを押す…テレビで発展途上国の取材中に、特に砂漠なんかでロケバスを押したりする場面はしばしば見ますが、そんなことが普通にあったのか、と思っていたら、1960(昭和35)年11月4日付朝日新聞滋賀版の「国鉄バス近城線 あす開通20周年」という記事に、

「戦時下は燃料不足から木炭車に切りかえられ、閑散線として廃車にひとしいものばかりが回されてきた。坂を上る途中で何回もエンストを起こす。そのたびに乗客全員に下りて押してもらい、やっと動きはじめる。だが、しばらく行くとまたエンストという悲しい日々だった」



と書かれており、やはりごく普通のことだったことが分かります。

記事はこちらです↓

S35.11.4A 国鉄バス近城線開通20周年b

今年のGWに、裏白峠を抜け、この路線に沿うように走りましたが、大半が新しい道となる中、普通車同士でも離合に苦労するようなところがいまだに残っていました。



話が逸れましたが、よそ者の若い男女だけは、どうしてもそれを手伝おうとせず、運転手が怒り出します。

「おい、みんなが後押しするのが、わからんか。一致協力ちふこと、知らんのかね」



まあ、今風にいえば、「空気が読めないのか?」ということですね。でもこの客も、バスが手押しで進むものだとは知らなかった、と負けずに嫌味を返します。

この時のバスは、「窓硝子は二箇所か三箇所ぐらい毀れてゐるだけ」で、少しは新しく見えたと書いています。

井伏の作品は剽窃なのでは?という説もネット上では結構出てきますが、一般的に言って『山椒魚』や『本日休診』などのユーモアあふれる作品が有名です。この作品も戦中戦後の動乱の時代を描いていますが、どこか滑稽で、『遥拝隊長』などと共に、世界の片隅に思いも寄らぬ影響を及ぼす戦争の空しさを描いているともいえましょう。

一方、彼の忘れてはならない代表作『黒い雨』は、広島で「黒い雨」を浴びた矢須子にせっかくの縁談が来たところで原爆症を発症するという深刻な筋書きで、発表はこの十数年後の1965(昭和40)年のことです。

IMG_1096_201706252334189f3.jpg

原爆投下から昭和40年までは20年、「乗合自動車」で乗客たちがバスを押している時から数えても20年前後、でも、昭和40年から今年まではその倍以上の52年が経過しているということが私にはどうしても不思議で仕方ないのです。
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