信夫はこん身の力をふるってハンドルを回した。だが、なんとしてもそれ以上客車の速度は落ちなかった。みるみるカーブが信夫に迫ってくる。再び暴走すれば、転覆は必至だ。次々に急勾配カーブがいくつも待っている。たった今のこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると、信夫はとっさに判断した。(中略)と、次の瞬間、信夫の手はハンドブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。
三浦綾子『塩狩峠』1973 新潮社 P356
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時間のある時にお金はなく、お金に余裕が出てきたと思ったら時間はなく、高校の頃に読んで、どうしても行きたいと思っていた旭川出身の作家・三浦綾子(1922-1999)の小説『塩狩峠』の舞台、北海道和寒(わっさむ)町の塩狩峠を訪ねることができたのは、10年以上経ったついこないだでした。
今回を含め3回にわたって、夏休み特集???でもないのですが、「塩狩峠」を取り上げますので、宜しければお付き合い下さい。

『塩狩峠』は、1909(明治42)年2月28日、この辺りで、連結器が外れて暴走し始めた最後尾の車両を、クリスチャンであった国鉄職員・長野政雄が自分の体を線路上に投げ出して止めた、という悲劇的な事故をモチーフにした、三浦綾子のあまりにも有名な代表作です。
外出があまり好きでない私としては、異例の長距離の旅に出たのは、8月某日でした。
峠のてっぺんにある、塩狩駅で降りたのは私一人。この近くにある『塩狩峠記念館』が目当てでした。

去っていく単行列車を見送ると、辺りは本州にはいない種類の、初めて聞くセミの鳴き声だけが響いていました。

↓旭川方面を望む


↓名寄・稚内方面を望む

あとで付近を歩いて、数軒の民家があるらしいことが分かりましたが、鉄道というものが初めて新橋-横浜間に開通してから数十年で、もうこんな所に達していた、ということに驚かされます。但し、塩狩駅自体は1924(大正13)年11月25日に開業します。


↓駅舎内

↓時刻表
あとで分かるのですが、「秘境駅」というほどのレベルではありません。しかし見ておかないと大変なことになります。②は2番乗り場に停まる、とあります。普通、駅の番線は、駅長室がある側、ない場合は駅事務室や駅舎がある側から数えていくものなので、恐らく降りたのと反対側の乗場が2番乗り場なのだろう、と思いましたが、どこに○番乗り場なんて書いてあるのだろうと思っていたら…

↓ありました。

↓駅舎側の乗り場にある観光案内板には、なぜか肝心の塩狩峠記念館が書かれていません。桜と違って、一年を通して見学できるのに。
※このページは開館当時そのままの内容のようです。開館時間は2011年8月現在17時までで、入館料金は200円です。

北海道を列車で旅していると、秘境駅とまで言わずとも、ほとんど利用者がなく、忘れ去られてしまったような小さな駅がたくさんあり、塩狩駅も、恐らく1日の平均乗降客数は1ケタなのだろうと思われますが、それでも地元・和寒町の方なのでしょうか、花で駅前通り?が飾られています。


↓どこの観光スポットも、たいてい、駅からの交通が大変だったり、京都でも「○○寺前」と言いながら、そこからが意外に遠いとかいうことが、よくありますが、ここは全国でも珍しい、駅から僅か2、3分という素晴らしいロケーションで記念館が見えてきます。

↓2番乗り場からは建物が見えますが、駅から見える、駅舎・駅施設以外の建物は記念館だけです。

↓駅から記念館へは、道路を大きく回り込むより、この立て看板に従って、右に写っている階段を上る方が早いです。


↓階段は、古い枕木でできているようです。

↓記念館が見えてきます。

もうあとちょっとで記念館ですが、写真が多いのでここで一旦区切ります。記念館に立ち寄る前に、周囲の様子のルポを1回挟み込みます。ご興味のある方はまたお読み下さい。
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