石山駅 いしやまえき
所在地:大津市粟津町
開設年月日:(京阪バスとして)?
(京阪宇治交通として)1962(昭和37)年11月1日
付近:JR石山駅 京阪石山駅 京阪バス石山駅前案内所 大津署石山駅前交番 石山駅前郵便局 平和堂石山店 滋賀銀行石山支店
↓石山駅北側の工場街の末端でJRのガードをくぐります。

旧大津市内線があった当時、このガードはなかったようです↓

大津市歴史博物館のページで、石山駅東側の立体交差完成祝賀(昭和46年)と題するこの場所の写真があります。こんな何でもないガードにも歴史があって、みんなが完成を祝った時があるのですね。

「晴嵐商店街」という看板はこの時既に設置されていて、40年以上も前ですから、全く同じものだとは思えませんが、看板の字体や形はほとんど変わっていません。
複々線化が立体交差化の大きなきっかけなのでしょう。踏切のままにしておかなかった当時の関係者の賢明さに感謝しなければなりません。こんなところが今踏切だったらどうなっていたことか…。ここの他にも、石山-膳所間上別保のバス停付近から北に抜ける道のガードなど、踏切を立体交差化したものと思われる場所があります。
そして、勝手知ったる我が庭???石山駅まで戻ってきて、ほっと一息。
石山駅の、というより石山駅前の歴史は、そのかなりの部分が狭さとの闘いだったと言って過言ではないと思われます。
所在地:大津市粟津町
開設年月日:(京阪バスとして)?
(京阪宇治交通として)1962(昭和37)年11月1日
付近:JR石山駅 京阪石山駅 京阪バス石山駅前案内所 大津署石山駅前交番 石山駅前郵便局 平和堂石山店 滋賀銀行石山支店
↓石山駅北側の工場街の末端でJRのガードをくぐります。

旧大津市内線があった当時、このガードはなかったようです↓

大津市歴史博物館のページで、石山駅東側の立体交差完成祝賀(昭和46年)と題するこの場所の写真があります。こんな何でもないガードにも歴史があって、みんなが完成を祝った時があるのですね。

「晴嵐商店街」という看板はこの時既に設置されていて、40年以上も前ですから、全く同じものだとは思えませんが、看板の字体や形はほとんど変わっていません。
複々線化が立体交差化の大きなきっかけなのでしょう。踏切のままにしておかなかった当時の関係者の賢明さに感謝しなければなりません。こんなところが今踏切だったらどうなっていたことか…。ここの他にも、石山-膳所間上別保のバス停付近から北に抜ける道のガードなど、踏切を立体交差化したものと思われる場所があります。
そして、勝手知ったる我が庭???石山駅まで戻ってきて、ほっと一息。
石山駅の、というより石山駅前の歴史は、そのかなりの部分が狭さとの闘いだったと言って過言ではないと思われます。



こういうアングルで撮影すると広く見えますが、バスが5,6台来るともう窮屈な感じになり、それを超えると恐らく動きを取るのが大変になります。JRと京阪の線路の位置は変わっていませんから、昔からこの広さはほとんど変わっていないのでしょう。
石山駅そのものの歴史は古く、1903(明治36)年4月1日開業ですから、とうに100年経っていることになります。
開業当初は臨時停車駅で、乗降客もろくにいなかったのだそうです。1927(昭和2)年7月、当時東洋一の規模、と言われた東洋レーヨン滋賀工場(現・東レ滋賀事業所)ができるなど、大正末から昭和初めにかけて今も駅近くに密集している工場が操業しはじめたことにより、駅らしい活況を呈するようになったようです。
しかし、きちんとした都市計画があるような時代でも、自動車が普及しているような時代でもありませんから、商店が駅のすぐ前まで建てこんでしまい、また、京阪電車が通り抜ける、今のような形になってしまったようです。もちろん、交通量が少なければそれでいいのですが、戦後の高度成長期を迎えると、そうも言っていられなくなります。
昭和30年代になると、石山駅前広場の狭さは社会問題になってきます。
1962(昭和37)年12月23日付滋賀日日新聞では、何と一面でこの問題が取り上げられていて、ボンネットの京阪バスの写真も写っています↓

拡張運動が再燃したのは、同駅前の広場(国鉄用地)は992平方メートルしかないのは(原文ママ)、広場内に京阪、近鉄、湖南、滋賀交通、国鉄、京阪宇治など6社のバス発着所、(略)朝夕のラッシュ時には一分間に一台のバスが発着、更にハイヤーや駅前通りにある日通石山支店のトラックが動くという混雑ぶり
拡張運動が「再燃」とありますが、1954(昭和29)年に大津市が都市計画事業として、石山駅前拡張計画を練っていたからであるようです。結局、少し道路を拡幅した程度で終わってしまった様子です。
因みに、「しかないのは」は「しかないのに」の誤植と思われます。「近鉄」はもちろん、「近江鉄道」です。この当時は、滋賀日日新聞(廃刊)や各紙の滋賀版では、近江鉄道を「近鉄」と略すのが普通で、「きんてつ」ではなく、「おうてつ」と読むことも珍しくなかったようです。今はかなり年配の方でないと、「おうてつ」などということはないと思われます。
滋賀交通が石山駅に乗り入れていた、というのも驚きです。瀬田川大橋は既に完成しているので、水口方面の路線は、廃止寸前の90年代前半の頃のように、国道一号線をまっすぐ走っていたのではなかろうかと思っていたのですが。
それにしても1分に1台とは…。この当時の国鉄石山駅の乗降客数は、記事によると23,000人余りで、今の半分くらい、周辺人口だってずっと少なかったでしょうに。
その後、東海道線複々線化(昭和45年)などによる駅舎改築などの変遷を経るわけですが、その辺りのことは、また調査を行います。
1969(昭和44)年2月4日の京都新聞にも同じような記事が載っていますが、同じような記事ということは7年経っても、大した変化はなかった、ということでしょう。
少しですが、旧大津市内線の末期の頃の石山駅が写った動画がありますので、ご覧下さい(49秒辺りから始まります)↓
一瞬江若バスのように見える青緑色は近江鉄道バスのようです。
込み合った石山駅を抜け出して国道に出る時に通る道は、今も昔もここです。

1990年代の初め頃に拡幅されたのではないかと思います。西側の広場は今も付近にある会社の敷地だったようです。どんな雰囲気だったか、私も全く覚えていないのですが、道自体はもっと狭かったことは覚えています。

ここから短い間ですが、旧大津市内線が国道1号線に躍り出ます。
次は、東レ前です。
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