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下北国町 しもほっこくまち
所在地:大津市長等三丁目? 開設年月日:不明 廃止年月日:不明 付近:大津長等郵便局 大津市立長等幼稚園 上北国町と由来は同じです。上、中、下の3つの北国町がありましたが、全て1965(昭和40)年に住居表示制の施行とともに大きな町域にまとめられました。 空き地と古い家屋が入り混じった、区画整理が近い町独特の雰囲気の中を通っていきます。 ![]() バス停はこの交差点付近にあったようです。 ![]()
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(今日は交通関係の話題はありませんので、ご興味のない方はスルーして下さい)
散髪屋さんで漫才のテレビやラジオは勘弁してほしい、と思うのは私だけでしょうか。顔を剃ってもらうのに、笑いそうになるのを堪えるのが大変!聴かないでおこうとすればするほど、面白さのツボにはまる。 …いったいこれは誰の漫才だろう?懐かしいだみ声、京都弁ではないけれど、柔らかい関西弁。ああそうか、いとし・こいし師匠の追悼特番だ。それともDVD? やっぱりおもろいですね。機関銃のようにしゃべくるわけではないけど、日常会話の「おかしみ」を見事に表していました。
一昨年1月24日付朝日新聞の、桂米朝師匠のコメント
![]() 真町 しんちょう
所在地:大津市長等一丁目? 開設年月日:不明 廃止年月日:不明 付近:西友大津店 大津赤十字病院 この町名を『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』で調べるのは少し苦労しました。 「まことまち」「まことちょう」だと思い込んでいて、音読みするという発想が全くなかったためです。「まさ」と読むのかな、といろいろ考えながら、「真町 大津市」をキーワードにネットで検索して、どこかのサイトさんで「しんちょう」という正しい読み方が書かれているのを見て、やっと発想の転換ができました。一人の目で見てドツボにはまるとこういうことになるんですね。私のような郊外の住人でなく、旧大津市街のひとには当たり前の知識なんでしょうか。 確かに、「しんちょう」を変換するとこの町名が出てきます。今もどこかに「しんちょう」があるのでしょう。 江戸期には「新町」(しんちょう)だったようです。なぜ文字が変えられたのか分かりませんが、明治から「新町」となり、1950(昭和25)年、隣の「西町」と合併して「真西町(しんにしちょう)」となりました。現在は長等一丁目、三井寺町の各一部分になっています(『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』P401-402)が、自治会の名前としては残っています↓ ![]() もともとは柴屋町と共に花街として有名で、もともとは今の県庁付近にあったものを、ここに移したのだそうです。 ![]() 今からちょうど60年前、1954(昭和29)年1月12日付の滋賀日日新聞↓
![]() 実に興味深い記事です。 1956(昭和31)11月19日に、東海道本線 東京―神戸間の中で最後まで非電化で取り残されていた、米原―京都間が電化されたわけですが、その前に、膳所―京都間だけを暫定的に電化開業させようとしていたことなど、今誰が知っているでしょうか? ![]() 膳所は今でも貨物の側線がありますが、以前は更に複雑な配線を持っていて、今コンクリート工場の下の駐車場になっている辺りにも側線が伸びていたのをはっきり覚えています。 それだけ広い構内を持っていて、しかももともとスイッチバックをしていたような駅ですから、特別に構造を変えなくても、当時はちゃんと折り返すことができたのかもしれません。 実現していたら、「普通・膳所行き」が存在したことになり、ひょっとすると緩行電車(各駅停車)の標準的な運転区間は、現在の京都・高槻-西明石・新三田間でなく、膳所-西明石間となっていて、列車の運転体系が大きく変わっていたかもしれません。膳所が緩急接続の拠点となり、車両基地が設けられたりして、石山駅や大津駅より、大きく発展していた、などという可能性もあります。 しかし、これが実現した形跡は全くありません。 駅の石山寄りには、下りは内側線から外側線に転線できる渡り線が、上りは逆に外側線から内側線に転線できる渡り線がありますが、ここ10年以上ほとんど毎日のように京都まで通っている私も、ダイヤが乱れた時に外側を走っていた草津行きの新快速が内側に移った1回しかここを通った覚えがありません。 まして、折り返しができるような線路など存在しません。 今、膳所駅は全ての歴史を飲み込んで、生まれ変わろうとしています。 ![]() ![]() 長等公園下 ながらこうえんした
所在地:大津市小関町 開設年月日: 廃止年月日: 付近:長等公園 大津大神宮 滋賀県神社廳(庁) 三橋節子美術館 〔現在ないもの〕大津市立乳児院(小鳩乳児院) 滋賀保護院 「長等」はこの近辺の広域を指す地名ですが、戦前はむしろ「神出」という方が普通だったようで、江戸時代から続く園城寺領の「神出村」が、明治22年から旧大津町、31年から大津市の「大字神出」となり、1951(昭和26)年から、「神出町」「神出車路(くるまみち)町」「神出小関町」「神出開町」「長等町」の5つに分割されました。「長等」が正式な行政上の地名となったのはどうもこの時が最初のようで、あくまでも「神出」の一部だったようです。 「神出」は園城寺山内にあった長等神社を勧請したことによる地名だということです。神様を出したから神出、ということでしょうか。 しかし、1965(昭和40)年、神出と長等の立場は逆転し、「神出〇〇」という町名だった範囲の大半が、「三井寺町」や「長等〇丁目」の範囲に取り込まれてしまい、現在も残っているのは、明治のころから県令によって開墾されて「神出」を「開いた」ことに由来する「神出開」から町名になった「神出開町(かみでひらきちょう)」しか残っていません(『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』P237-238)。今これを書きながら、子どもの頃から地図を見て、「神出開町」なんて変な町名だなと思っていた(お住まいの方、ご出身の方、大変申し訳ありません)のが、謎が解けました。 ![]() |