青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
28日付拙稿塩狩峠の続きの前に、59年前の今日、1952(昭和27)年8月31日付で発行された京都新聞山城版に掲載された記事が面白かったので、先にUPさせて頂きます。塩狩峠第2弾は、2日か3日の予定で編集中ですので、ご興味がおありの方は宜しくお願いしますm(__)m

S27.8.31KY 八幡田辺線増発要望b

八幡田辺線は、もともと京阪バスの前身の1つ、男山バスが運行、戦時中に京阪バスが引き継ぎ、多くの路線が休止される中でも、鉄道がない地域だったためか、休止されずに運行が続けられたようです。前身の会社を含めれば、70年ほどの歴史があるということで、現存する京阪バスの路線としては最も古い、大津管内の、南郷外畑周辺に次ぐ古さです。
ただ、割と単線的な歴史を持つ大津管内と比べ、ここは1969(昭和44)年に京阪宇治交通に移管され、2006(平成18)年4月、京阪宇治交通、京阪宇治交田辺の、京阪バスとの合併に伴い、再び京阪バスの路線となった、という波乱万丈な経緯があります。

この記事では路線が開通して12年目、とあるので、1940(昭和15)年から、京阪バスによって運行されているということなのでしょう。

↓八幡田辺線の中でも、最もオーソドックスな、74号経路(八幡市駅-内里-岡村-新田辺)の経路。(大丈夫だと思いますが、万一間違いがありましたらお知らせ下さい)
こうして見ると、結構な距離です。実際にバスに乗ると、なんだかんだで40分くらいはかかります。



余談ですが、まだ昭和27年で既に「テクる」などという俗語があったことに驚かされます。
また、地名が難しくて、私も長らく読めなかったのですが、「有智郷」「うちさと」で、現在は「内里」と書かれることも多いです。バス停も「内里」です。
「都々城」は字面だけ見るとものすごい立派ですが、「つづき」です。
どちらもいわれれば、まあ何となくそう読めなくはありませんが…。

京阪バスのバス停もある、八幡市立有都小学校は「智郷」と「々城」を合わせた名前です。

↓現在の八幡市駅

[イモが転がる、足を踏まれる、八幡田辺線]の続きを読む
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信夫はこん身の力をふるってハンドルを回した。だが、なんとしてもそれ以上客車の速度は落ちなかった。みるみるカーブが信夫に迫ってくる。再び暴走すれば、転覆は必至だ。次々に急勾配カーブがいくつも待っている。たった今のこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると、信夫はとっさに判断した。(中略)と、次の瞬間、信夫の手はハンドブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。

三浦綾子『塩狩峠』1973 新潮社 P356



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(1973/05)
三浦 綾子

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時間のある時にお金はなく、お金に余裕が出てきたと思ったら時間はなく、高校の頃に読んで、どうしても行きたいと思っていた旭川出身の作家・三浦綾子(1922-1999)の小説『塩狩峠』の舞台、北海道和寒(わっさむ)町の塩狩峠を訪ねることができたのは、10年以上経ったついこないだでした。

今回を含め3回にわたって、夏休み特集???でもないのですが、「塩狩峠」を取り上げますので、宜しければお付き合い下さい。

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『塩狩峠』は、1909(明治42)年2月28日、この辺りで、連結器が外れて暴走し始めた最後尾の車両を、クリスチャンであった国鉄職員・長野政雄が自分の体を線路上に投げ出して止めた、という悲劇的な事故をモチーフにした、三浦綾子のあまりにも有名な代表作です。

外出があまり好きでない私としては、異例の長距離の旅に出たのは、8月某日でした。
峠のてっぺんにある、塩狩駅で降りたのは私一人。この近くにある『塩狩峠記念館』が目当てでした。

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去っていく単行列車を見送ると、辺りは本州にはいない種類の、初めて聞くセミの鳴き声だけが響いていました。

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↓旭川方面を望む

[塩狩峠]の続きを読む
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草津にやって来ました。一応隣町ですが、数年ぶりです。かつては「新快速の終点(起点)」としても有名でしたが、今は草津止まりの電車は大変少なくなっています。それでも、草津線が分岐する交通の要衝です。
また、滋賀県内では最も乗降客数の多い駅です。

↓旧市街は東口です。平成の大合併には無縁ながら、人口13万人、大津に比べると、狭い範囲にギュッと街が濃縮されている感じなので、人通りも多く、京都や大阪のひとが一般にイメージするよりはそれなりにしっかりした規模のある「都市」に見えます。全国展開する会社の営業所が、京都に近すぎる大津でなく、草津に設けられるケースも多いようです。

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駅舎は結構新しく、ガラスを多用した斬新なデザインに見えますが、1967(昭和42)年4月12日に完成しており、意外なほど古いです。まだまだ木造の駅舎が多い当時としては、別格のきれいな駅に見えたことでしょう。
手前の門は、新しいものですが、宿場町としての草津をもっとアピールするために建てられました。

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↓駅前は、近江鉄道の他、帝産バスが多く集まります。「トレーニングセンター」はもちろん、競走馬の「栗東トレーニングセンター」です。「金勝」は知るひとぞ知る難読地名「こんぜ」です。

いつもお世話になっているT.F.さんによると、1980(昭和55)年頃までは、草津-八日市間を45~50分かけて、近江鉄道バスが1~2往復/h走っていたそうです。

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↓何の変哲もない「日本旅行」の草津支店ですが、こここそ、今や全国展開する「日本旅行」の発祥の地であり、本当ならここが本社だと言ってもいいような場所です。
南新助という草津出身の実業家が、国鉄の団体割引運賃を利用して、高野山、伊勢神宮参拝を企画して成功させたのが、日本旅行の会社のルーツであり、日本の「旅行代理業」という仕事の嚆矢なのだそうです。
因みに、支店が入っている「第2南洋軒ビル」の「南洋軒」も、南新助にルーツのある会社です。

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草津そのものの話ばかりになってしまいました。ここから歩いて国道1号線に出ます。

[東草津【京都八日市線④】]の続きを読む

「あなたの星、とてもきれいですね。海がありますか、ここには?」
「知らんよ、そんなこと」と、地理学者はいいました。
(中略)
「だって、おじさんは、地理学者でしょう?」
「そりゃそうだ。だが、わしは探検家じゃない。探検家なんか、わしにはまったく御縁がないよ。地理学者は、町や川や、山や海や、大きな海や、砂漠のかんじょうなんか、しようとはせん。とてもたいせつな仕事してるんだから、そこらをぶらついてなんかおられんのだ。仕事べやに、ずっとひっこんでるきりだよ。だが、探検家がきたら、いろいろな報告をうけて、あいての話をノートにとる。そして、あいての話をおもしろいと思ったら、地理学者というものは、その探検家がしっかりした人間かどうか、しらべさせるのだ」
「どうして?」
「もし、探検家がうそをついたら、地理の本が、トンチンカンにならんとも限らんからね」

サン・テグジュペリ 内藤濯訳『星の王子さま』 84-85 岩波書店 1953




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湖西線の車窓から見えるその団地を、乗客は、「琵琶湖が見えていいところだろうな」と漠然と思うことでしょう。

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何だか、岡鹿之助の「段丘」の絵みたい…。

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しかし、一歩団地に入ると、何か違和感を覚えることでしょう。
[【地図混乱問題】大津市和邇北浜「住吉台」]の続きを読む
前回の続きです。延暦寺バスセンターのすぐそばにゲート。

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↓早速幽玄とした雰囲気です。

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大講堂  「延暦寺バスセンター」のバス停は、以前はこの建物に因んで、「大講堂」という名前でした。

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↓根本中堂(こんぽんちゅうどう)
[現代の「納涼バス」②]の続きを読む
夏に因んで、拙ブログでも昨年8月11日付の納涼バスで1963(昭和38)年夏に運行された「納涼バス」を、今年の8月11日には納涼 坂本ケーブルで坂本ケーブルをそれぞれ取り上げておりますが、現代の「納涼バス」ともいうべき、京阪バスの夜間臨時バスをご存知でしょうか。

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(三条京阪にて B-1207)

今年は京阪バスや比叡山延暦寺の公式HPでも紹介されている通り、8月11日から15日まで、延暦寺夜間特別拝観法灯花が行われ、これに合わせてこの間だけ各交通機関、臨時のダイヤで運行されておりました。
例年、夜間拝観は行われているようですが、あまり気をつけてパンフレットなどを見たことがなく、深く気に留めておりませんでした。

しかし、仕事で車を運転していた時、三条通で「直行 延暦寺バスセンター」の表示を出して走るニューエアロスターのB車を見て、これはすごい!と思って、早速先日出かけたのでした。
[現代の「納涼バス」①]の続きを読む
S30.1.5KS 瀬田川畔の綿羊王国b2

↑1955(昭和30)年1月5日付京都新聞滋賀版
※現在の感覚では、ある種差別的とも受け取れる表現がありますが、当時の時代背景を考え、原文を保つことを重視し、個人名以外はそのままにしております。

「瀬田川畔のメン羊王国訪問」
なんて書かれているだけで、大津市在住、出身の方、特に南部の方は何事か?と色めき立つことでしょう。私も、「南郷水産センター」ならぬ、「南郷メン羊王国」なる農業・畜産体験テーマパークみたいなものがあったのかと一瞬思ってしまいました。

見出しの下の方に「大津市石山寺辺」…。ほぼ現在の石山寺一~五丁目と、石山団地(大平一、二丁目)に当たります。東は、瀬田川沿い、大津市立石山小学校の辺りから、京滋バイパスを越えて、西は石山団地辺りまで、北は石山寺から、南は平津との境界線の辺りまでの範囲です。

古い新聞記事には、インターネットで検索しても、もはや何もヒットしない、誰もかも忘れてしまっているのではなかろうかと思われるような、思いがけないことが載っていることがしばしばあります。路線バス関係以外でも、そういう記事が出ていると、私は面白くて、1枚50円もするマイクロフィルムのコピーをついつい取ってしまうのですが、今回はその中でも、最高に興味をそそられた地元ネタの一つです。

大津市石山寺↓

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行政上の地名は先述の通り、「石山寺1~5丁目」「大平1、2丁目」ですが、自治会名は、下の写真の右に写っている看板の通り、今も昭和51年の住居表示制施行以前からの「寺辺(てらべ)町」です。今でも石山、南郷方面では「寺辺」という方が通りやすいです。

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田んぼや山と家並が鬩(せめ)ぎ合う、この典型的な新興住宅地の石山寺辺町が、かつて読売新聞社主催の「新生活モデル町村」滋賀県総合1位となったという輝かしい歴史を持ち、何とヒツジの飼育が盛んだった(!)ことなど、誰が覚えているでしょうか? 私は、大津市史その他の資料でも、こんな記述は全く見たことがありません。

記事によると、農協婦人部が滋賀県甲南方面のヒツジ飼育先進地を見学、井戸端会議をしながら狭い耕地をいじくるだけでは能がない、とヒツジ飼育を研究したのがきっかけ。地区の農家のうち半数以上の36戸が3-4頭飼っていたということは、寺辺にはおよそ120-130頭のヒツジがいた、ということになります。

さすがに、オーストラリアやニュージーランドのような、放牧型の大規模なものではありませんね。日本は高温多湿で、あまりヒツジ飼育に向いているとは言えないので、今も北海道など一部を除いて、大掛かりにヒツジを飼育しているところはあまりなく、農業(畜産含む)で町おこし、村おこし、というと、比較的狭い土地でも飼育しやすい地鶏なんかが多いですね。今の目で見ても、ヒツジはある意味画期的です。

今年は隣村の南郷方面に呼び掛けて普及と指導に乗り出すと張り切っており瀬田川のホトリ一帯が平和なメン羊王国になる日も遠くはない。



とあります。南郷は「隣村」???む、村?

新しい住民の方や、若い世代だとびっくりするかもしれませんが、大津市と合併してこの時点で20数年しか経っておらず、本当に、これといった施設もほとんど何にもなくて、人口も今の半分にも遠く及ばないでしょうから、「村」という認識でもおかしくないのでしょう。

↓1955(昭和30)年8月13日、今から56年前の今日の読売新聞滋賀版
[瀬田川畔のメン羊王国 石山寺辺町?]の続きを読む
残暑厳しい今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか?

昨年の今日の、拙ブログの記事は、納涼バスでした。1963(昭和38)年7月20日付朝日新聞で紹介された「納涼バス」。京阪バスは三条京阪17:50発比叡山頂行き、帰りが22時前着、大津駅17:30発比叡山頂行き、20:00大津駅着というダイヤです。

この3年後の1966(昭和41)年、夏本番を前にした5月15日付の朝日新聞京都版(市内・山城)の大丸の広告によると、

冷蔵庫・扇風機・クーラー 超特価奉仕 きょう限り 6階催場

一流メーカー製電気冷蔵庫 37,000円
一流メーカー製扇風機    6,500円
一流メーカー製ルームクーラー 78,000円 87,000円 (※2種類出ていた)



大卒初任給が2万数千円の時代ですから、今の値打ちで言うとクーラーは…70-80万?????

そんなもの誰も買えないですね。1960年代の『三種の神器』は、車、カラーテレビ、クーラーだそうですが、クーラーはやはり一番普及が遅かったようです。
庶民の涼み方で、ちょっと贅沢なのが、比叡山の納涼バスだったのかな?と去年、記事を書いた当時思ったわけですが、正直なところ、
「比叡山に登ったからってそんなに涼しいのか?」
と疑問に思っておりました。しかし、先日、生まれて初めて坂本ケーブルで登ったら、本当に暑くもなく寒くもなく、麓と全く違っていて驚きました。石山・南郷でも大阪に比べれば十分涼しいようで、大阪の親戚や友人が来ると一様に驚かれる(気温そのものは1,2℃しか違わなくても、湿度や風の関係で体感温度を低く感じるらしい)のですが、比叡山は、正に天然のクーラーでした。

麓の坂本延暦寺駅の標高差は484m、写真には撮り損ないましたが、ケーブル坂本駅には双方の気温が掲示されており、坂本29℃、延暦寺駅23℃でした。

↓延暦寺駅付近から堅田方面を望む

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乾燥断熱減率(水蒸気が飽和していない空気が、高度に反比例してどれだけ気温が下がるかの割合)は、100mごとに1℃なので、高校の地学の教科書通りなら4.8℃違うはずですが、理論上より差が大きかったということになります。

半袖でちょうど気持ちいいです。もっとも、本格的に登山される方は、ヘビやハチが怖いので、ちゃんと長そで長ズボン、動きやすい靴を着用して下さい。

私はブログ「取材」その他の都合で、バスで比叡山に登って、ケーブルで下りる、というルートを取りました。

↓先ほどと逆に、大津、膳所方面を望んでいます。

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↓ケーブル延暦寺駅。
ゴッホの『黄色い家』を思い出さずにはいられませんでした。形はかなり違うんですが、こういう黄色は日本の建造物では珍しいので、黄色が印象的なゴッホを思い出したのでしょう。1927(昭和2)年の開業以来使われている建物だそうで、70年目の1997年に、国の登録有形文化財に指定されています。

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駅の中で真っ先に私が気になったのは、運賃表↓
[納涼 坂本ケーブル]の続きを読む
検車庫がなくなり、留置線だけになった、四宮車庫…↓(門の柵の外から撮影)

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地下鉄東西線開通まで、京津線普通電車は四宮-三条間を走るのが基本だったため、折り返しや入出庫がひっきりなしだったものと思われますが、今は検車機能が錦織車庫に移り、折り返しも1日数本になったため、かつてよりは静かだろうと思われます。

ここで、1949(昭和24)年8月7日の未明に出火、25両あった車両のうち22両が被災、最終的には17両を廃車せざるを得なくなるという大変な火災が発生したことは、忘れ去られる事件事故、災害が多い中にあっては、経過した年数の割には比較的有名だと思われます。京阪電鉄の歴史を辿る中で、マイナスではあるものの、決して外すことができないできごとでありましょう。

事故翌々日、8月9日付京都新聞↓

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この記事の左下の方の「人力で四台を」という小見出しがついているところをご覧下さい。有名なエピソードだそうですが、近隣の住民が社員と合わせて150人ほどで電車の避難をさせたということも書かれています。

62年前の今日から暫くは、現場検証や取り調べ、今後の対応の検討に大騒ぎだったことでしょう。京大の先生まで来て検証が行われていますが、結局60年以上経った今日も、はっきりした原因は分かっておりません。8月9日付京都新聞。↓

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この記事の右下の方、赤い傍線を引いた社長のことばをご覧下さい。何と京津線を廃止して、トレーラーバスにした方がよいのではないか、研究を進めたいというようなことが書かれています。
同志社鉄道同好会OB会のデジタル元祖青信号で、私のブログを紹介して下さった、「びわ湖の銀嶺へ」/昭和22年12月26日の新聞広告という記事にも、この新聞記事について触れたコメントが寄せられていました。

本当に京津線がこの後すぐに廃止されてバスになっていたら……どうなっていたのでしょう?かなりモータリゼーションが進んだ昭和50年代でも、まだ京津国道線は1時間に3本ほどは走っていた(昨年8月24日付拙稿すったもんだの藤尾・小金塚 京阪バス路線開通①引用の1978年5月30日付京都新聞参照)のです。
結局「研究」の結果、やはり妥当ではないと思われたのでしょう。賢明だと思います。トレーラーバス自体この後すぐ、神奈川県での火災を機に使えなくなりましたし、本当に廃止していたら、とんでもないことになっていたと思います。

余談ですが、翌年からほぼ現行のデザインに変更になった京阪バスのデザインは、アメリカのグレイハウンド社のバスのデザインを基にしている、とよく言われますが、この記事にもある通り、社長は渡米していたとのことで、この時、グレイハウンド社のバスを見てきたのではないか、と推察しております。


火事そのものも大変なことですが、今回注目したいのは、主に、あまり知られていませんが、京阪バスによる代行輸送等の特殊扱いです。

8月9日、10日と、相次いで下のような広告が京都新聞に掲載されました。
[1949(昭和24)年8月7日 京阪四宮車庫火災と代行バス]の続きを読む

あんたが望むことができるのは、あんたの世界を思いだせる間だけ。ここの連中は、記憶をすっかりなくしちまった。過去がなくなったものには、未来もない。だからこの連中は年もとらない。(中略)こいつらには、変わりうるものが、もうないのさ。自分自身がもう変われないんだからな。

(ミヒャエル・エンデ 上田・佐藤訳 『はてしない物語』(下) P304 岩波書店 2000)




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ブログを始めて、無事に1年が経過しました。これもひとえに読者の皆さまや、資料を提供して下さったりして私をサポートして下さる方々のお蔭です。ありがとうございます。

最初の頃のことを思うと、試行錯誤をしてやっとちょっと慣れたかな、という感じです。

もともと歴史など、内容的に写真が中心にはならない(しにくい)、テキスト中心のブログなので、どのくらい読者の方がついて下さるのかも分からず、まあ、自分なりに覚書にできればいいか、と思っておりましたが、予想よりはたくさんの方にご覧頂き、幸甚です。

タイトルを「現在完了形=present perfect」としてしまっていますが、本当は、「未来完了形=future perfect」でないといけなかったのかもしれないと思うこともあります。

今は、細かな点が散らばっているだけですが、それがやがて線になり、線が面になって行き、分からなかったことがだんだん明らかになっていくばかりでなく、過去から未来に至る軌跡が描けることを願いながら、書いています。

路線バスを巡る情勢は厳しく、今のままでは明るい軌跡とならないかもしれません。でも、ドラえもんではありませんが、未来は変わることがありますし、xy座標面上のある点から、ベクトルの成分が変わってもおかしくはありません。

過去がなくなったものには、未来もない―――忘れられてしまったであろう過去を私なんかが今に蘇らせて、その中で変わりうるものを見出せるのか分かりませんが、何かやってみずにいられません。

S29.9.5S 京阪バス広告(路線図有)右b

[Future Perfect~「永いおなじみ」から「永いおなじみ」へ]の続きを読む