青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
ますます暑いです。なかなか本題の「京阪バス」の話ができず、すみません。資料や画像の整理や「取材」が追いつきません。少しずつ何とかして行きます。

京阪石山坂本線では、昨年も好評だった、「ビールde電車」が走っております。

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↓浜大津駅に貼られていたポスター

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これを小さくしたパンフレットは、京阪電車各駅のみならず、JRの主要駅にも置かれており、昨年に引き続き、人気ぶりが窺えます。

このキャラクター、かわいいですね♪少し右に傾いているのが、より一層ビールを「運んでいる」という「動き」をリアルに感じさせ、左横のジョッキと傾きが逆なので、動きがありながら、安定感があるような感じがします。

大津線公式HPによると、名前がまだないそうで、募集されていました http://www.keihan-o2.com/topics/2011beer.html

このページによると、「ビールde電車」の冬バージョンともいえる「おでんde電車」のオリジナルキャラクターは「おでんでん」と名付けられたそうです。

どうせなら、運行期間前に名前が決まった方がいいのでしょうけど、運行期間に入って、人目に触れるようになってからという形も、それなりに意味がありますし、何より、また来年も走るのだ、という明るい見通しが、いいのでしょうね。

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ところで、3月8日付朝日新聞社会面に「おでんde電車 超満員」という見出しの記事。「おでんde電車」が大人気のうちに今シーズンの幕を閉じようとしているという記事で、滋賀版でなく、大阪本社共通の記事というところで、注目度の高さが窺えます。

「ビールde電車」も、今に似たような記事が出るのかな、と思うのですが、こういう記事では大抵、石山坂本線のことを、

地元では「いっさか線」の愛称で親しまれている石山坂本線

と紹介されます。

私は、こういうのを見ると、誰が「いっさか線」なんて呼ぶんや???といつも疑問。
物心ついてからずっと、石山寺より南の新興住宅地に住んでおり、狭い意味での「沿線」ではなく、京阪電車もめったに利用しないので、生粋の大津や膳所のひととは、かなり感覚や意識が違うのかな?と思うことはあるのですが、一応、旧市街の出身のひと、今も住んでいるひと、南郷に住んでいるけど、京阪電車で通学していたひとなど、何人かに聞いてみたところ、
「ぼくは言わへんなあ」「聞いたことない」「浜大津や膳所辺りの年配のひとだけちゃう?」
などの回答。世代が偏っているせいもあるかもしれませんが、誰も「いっさか線」とは言っていないようでした。

では逆に何と呼ぶかを聞いてみると、「京阪」「京阪電車」…これは私も同じでした。実際、私も先ほど「京阪電車もめったに利用しない」と書きましたが、これは、もちろん、石山坂本線を指しています。

この辺りでは普通、本線のことは滅多に話題にしないし、しても文脈で分かるから、単に「京阪電車」といえばそれだけで通常は大津線のことであり、特に京津線を区別したければそれは「京津線」というので、わざわざ取り立てて「いっさか線」なんて呼んだりはしないな、と思います。

ただ、地の人間が「石山」を発音すると「いっしゃま」と聞こえるように、発音が縮まると「いしざか」と言っているつもりでも、「いっさか」と聞こえるのかもしれません。

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同じ日に、「大地震 帰宅困難者 大阪駅周辺に20万人」という記事。

[石坂線=いっさか線?]の続きを読む
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上着を脱ぐと、コートハンガーを手渡してくれる。「安物ですから」と辞退すると「安物はすぐにしわになりますよ」。人懐こそうな目が笑っている。ユーモア感覚あふれる毒舌家だった。

(2011(平成23)年6月11日付朝日新聞夕刊)



いいわ!こういうの大好きですw 私もこんなことばっかり言っています。
職場でこの新聞記事見せながらその話をしたら、お前はもっと陰険じゃないか、と笑われ、心外でしたが(-_-メ)

故・舟越保武氏とともに、現代の日本を代表する彫刻家・佐藤忠良(さとうちゅうりょう)氏が3月30日に98歳で亡くなったことを知ったのは、恥ずかしながら3カ月近く経ってから掲載されたこの「惜別」という記事ででした。新聞は毎朝夕チェックしているのに、何ということか……。多分、震災関係の記事がまだまだ紙面を埋め尽くしていた時なので、見落としてしまったのでしょう。

学生時代に一般教養で取った美術関係の科目で、絵に関する話を期待していたのに、たまたまその年の担当の先生が、彫刻が専門だったため、彫刻の話が中心になってしまい、そこで名前を知ったのでした。講義を聴いた最初は、あちゃー…と思ったのですが、それはそれで思っていたより面白くて、その年の夏休みに、すぐに静岡県立美術館のロダン(François-Auguste-René Rodin 1840-1917 「考える人」などで有名なフランスの彫刻家)を見に行ったのを覚えています。佐藤忠良氏の名前を知ったのもその講義でした。

一般には、絵本の挿絵でよく知られていますね。

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特に、一番上の「おおきなかぶ」はご覧になった方も多いと思います。いま日本で出回っている「おおきなかぶ」の絵本といったら、圧倒的に彼の絵が多いのではと思います。

「木」の質感の捉え方も、彫刻家らしい独特な立体感に見えます。

ちょうど、守山の佐川美術館で、佐藤忠良追悼展「-ブロンズの詩-」が開かれていたので、行ってきました。

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車で行くことも考えたのですが、別件もあったので…

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[ブロンズの詩]の続きを読む
S35.7.24K夕 比叡山バス転落事故

(昭和35年7月24日付京都新聞夕刊)

S35.7.25K 比叡山バス転落事故

(昭和35年7月25日付京都新聞)

事故を取り上げるのは、正直どうなのだろうかと迷ったのですが、負の歴史も歴史ですし、忘れてはいけないことだと思いましたので、今後の交通の安全を祈念して、あえて取り上げました。

1960(昭和35)年7月24日、51年前の今日、午後12時25分頃、開通してから2年余りの比叡山ドライブウェイで、その事故は起きてしまいました。

記事によると、その日、神戸市葺合(ふきあい)区(1980年以降は中央区の東部)の葺合遺族会の一行は、2台の全但バスに分乗して、延暦寺根本中堂(こんぽんちゅうどう)、近江神宮を巡る旅行をしていたようです。

奇しくも、今年の7月24日は昭和35年と同じ日曜日、涼しい比叡山は、観光日和だったことでしょう。

事故に遭ったのは2台目のバスでした。比叡山頂から、比叡山ドライブウェイの本線につながる交差点(西尊堂前、無動寺バス停付近)で、根本中堂方向から来て一旦停止していた三条京阪行きの京阪バスに衝突して、ガードレールを突き抜け、谷底に落下したのです。乗客44人中、子どもを含む28人が亡くなるという大惨事になってしまいました。
その割には、時代が古いせいか、インターネットで調べても、僅かしかヒットしません。




因みに、新聞記事画像はUPしていませんが、7月25日付京都新聞によると、京阪バス側でも、乗客4人が軽傷だったとのことです。

↓比叡山頂から、交差点に下る道筋から見た琵琶湖。その日も、こんなふうに天気が良かったのでしょうか。

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滋賀県民である私でさえ、息を呑むような美しい景色に、神戸の一行も、心躍らせたのでしょうか?

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[1960(昭和35)年7月24日 比叡山バス転落事故発生]の続きを読む
「月の輪」は、大津市南部から草津方面のひとにとっては「月の輪自動車教習所」のイメージでしょう。月の輪の少し東には、更に「滋賀県自動車教習所」もあります。そこにある「教習所前」(月の輪の2つ東)が、国道1号線で、旧栗太郡瀬田町(大津市)の東端です。




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行政上の地名では、間の平仮名の「の」の字は入りません(瀬田月輪町、月輪1-5丁目)。

帝産バスのバス停名にもなっている「山之神池」をはじめ、もともと溜池が多いところで、「月輪池」という池もあり、それが「月輪」という地名の由来になったと言われています。月輪にあるから「月輪池」ではなく、池の名前の方が先なんですね。

東海道名所記に、
「池水澄みぬれば、月さやかにうつり給ふ名所あり。この池も月の水底にうつり給ふを、落ちたりといひ伝へしや」
と書かれているそうです。池が澄んでいて、底に月が映っているのが、まるで月が落ちたかのようだったんですね。

大津、京都方面のバス停↓

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道の反対側から。

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しかし、この位置に草津、八日市方面のバス停があるわけではありません。「月の輪」の上下は、互い違いでかなり離れていて、京都方面のバス停の東にある交差点の向こう、月の輪自動車教習所のすぐ近くです↓

[月の輪【京都八日市線③】]の続きを読む
(今回は交通関係の話題ではなく、また、これといった写真がありませんので、テキストだけでエッセイ風になります)

私は、生でテレビを見ることはあまりなくて、ずっと前の番組を、ブログの資料を整理したり、洋服を畳んだりしながら見るのですが、今日は、2月26日放送のNHK『世界遺産への招待状』第67回「永遠の故郷 最後の瞬間(とき) ~丹霞地形~」を見て、「世界遺産」て何なのだろう?と考えさせられました。

この世界遺産に指定された地域にある、中国・老虎際村という村に、600年に渡って代々住み続けているひとびとの暮らしがこの回のテーマだったのですが、観光開発のため、村を立ち退かなければならなくなりました。村は老人ばかりたった5人、20年前には100人いたそうですが、みんな都会に出てしまったそうです。日本も、「過疎」を通り越して「限界集落」が問題になっていますが、こんなに急速に人口が減ったところも、そうはないのではないでしょうか。

1月22日放送、シリアの「ボスラ」のように、場所によっては世界遺産の指定を受けた場所、それどころか遺跡の中で暮らしている、などという例もあるので、何も立ち退かなくても、と思ったのですが、開発業者と交渉している村のリーダーいわく、
[トラクターで来はったらどうどすか?]の続きを読む
瀬田川大橋を渡ると、旧栗太郡瀬田町。京都八日市線のバスが橋を渡る時、既に左手には三洋電機の工場が見えたことでしょう。三洋電機の滋賀工場は、1950(昭和25)年から洗濯機など主力商品の重要な工場だったそうです。

それを過ぎて、旧街道と合流するポイントが「久保江」。ちょうど石山駅と瀬田駅の中間ですが、京都八日市線(国道経由)開通当時、瀬田駅は影も形もなく、石山の東隣りは草津だったので、バスの果たす役割は大きかったことでしょう。



古い路線図も…。

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東行きバス停↓

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「久保江」という地名は、現在の行政地名には残っていないので、恐らく小字なのでしょう。
かつては草津駅-浜大津系統、草津駅西口-浜大津系統(浜街道線)の2系統だけで交互10分間隔だったのにずいぶん寂しくなりました。

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1つ東の「大江」ではなく、ここに京都八日市線が停まったのは、やはり旧道との分岐・合流点だからということなのでしょう。
因みに、「大江」から西の大津方面が、京阪バスの大津市内特殊区間制運賃区間で、東の草津方面、浜街道方面が、近江鉄道バスの対キロ区間制運賃区間です。大江から東だけで乗る場合はもちろん、大江で東西をまたがって利用する場合も、運賃は近江鉄道の対キロ制運賃で計算されます。

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[久保江【京都八日市線②】]の続きを読む
前々回に続き、帝産の話題です。頂いたコメントと、それに対する私のレスとを再構成しながら、進めて参ります。

K2様のコメントより

> ②「湖南高校」行きは字の色が赤字でした。同じパターンで「湖南アルプス」という幕がありましたが、実際に使われたシーンはみたことがありません。どういう場面で使ったのでしょうね。

湖南高校は特定輸送で、①②③……といくつかのコースがあったように記憶しています。
またどこかで詳しく書きますが、京阪バスの石山団地系統が、昭和40年代初めはあまりに本数が少なくて、住民の猛烈な批判が営業所に殺到しており、当時既に湖南高校の特定輸送を行っていた帝産バスが、「うちで石山団地の路線を運行しようか」と検討を始めたほどだったそうです。
湖南アルプスの同様の幕の存在は知りませんでした。

>アルプス登山口行きってありましたよね。

とも書いて下さっていますが、もちろん、現在もあります。

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現在はどちらかというと、登山口近くまで開発された「もみじが丘」の通勤路線ですね。

>そこで郵便貯金通帳を拾い、交番に届けました。お礼の手紙か、お金が届くかとワクワクしましたがなにもなく、子供心に傷ついた気折があります。(額面は千円でした。)

やっぱりそういうちょっとした一言って大事ですね。気に入っても、入らなくても、何でも黙っていて、ちゃんと面と向かってコミュニケーションを取ろうとしないひとが最近多いような気がします。

>そのころ、帝産の料金表示器はすでにデジタル式で、幕式だった京阪に比べ、進んでいると思いました。どうした京阪!でも、帝産バスは路線の距離が長いので当然だったのでしょうか。

距離が長いというか、対キロ制で整理券が多かったからでしょうね。近江も、車両は80-90年代は京阪より数年-10年くらいは更新が遅れているように見えましたが、運賃表はデジタルでしたね。

それどころか帝産はもう、LCD画面を入れている車両があります↓帝産バスに乗ったのは人生の中でも本当に片手の指で数えられるほどの回数なので、もちろん、中で画面を見たことはありませんが、すごい高機能のようです。
京阪も、ICカード導入を機に、やればよかったのに、と思うのですが。 

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[ツバメの巣のある石山駅前]の続きを読む
◆お知らせ

パソコンの不調のため、細かい編集ができない状態になっており、コメントのレスが最近できておりませんでしたが、先日無事に修理から返ってきましたので、新規の編集を再開します。ご迷惑をおかけしました。
 
            §            §

「パル」の話から、帝産バスの話に発展して、コメント欄が意外に盛り上がりました。情報をご提供下さっている、ひえい様、K2様、滋賀は第二の故郷様、ありがとうございます。

K2様への私からのコメントレスを、いったん削除して、滋賀は第二の故郷様のコメントへのレスも含めてまとめなおし、予定を変更し、6月24日付の記事でのお知らせ通り、臨時の記事を1回挟み込みます。

京阪や近江でも資料、情報は十分ではありませんが、帝産は更に極端に資料がなくて、新聞で華々しく取り上げられるのは、せいぜい1962(昭和37)年の京都-信楽間の開通くらいで、あとはたまに牧口(現 大津市牧2丁目)から信楽の黄瀬(きのせ)にかけての、あの危ない県道16号線で事故が発生したとか、そんなことがほとんどです。

↓信楽駅付近が欠けてしまっていますが、ほぼ帝産の石山駅-信楽線のルートです。(一見新名神を経由しているように見えますが、「詳しい地図を見る」をクリックすると、ちゃんとしたルートが出ます)




あの道はいつ落石があるか分からないし、離合もままならない場所があって今でも通りたくないのに、昭和37年なんて、どんな道だったんでしょう?石山-信楽間の路線は更に前からあるはずだし…。

と思っていたら、滋賀は第二の故郷様が、1964(昭和39)年から1965(昭和40)年頃に、河原町御池から信楽行きのバスに乗った経験を書いて下さり、唐橋を過ぎた辺りから未舗装だった、と証言して下さいました。やっぱりそうなんですね。

お祖母様の、
「大戸川沿いで土砂崩れがあり、京都から乗ってきたバスを降りて、雨のなか土砂崩れ現場を歩いて、信楽側から迎えに来たバスに乗り換えて終点まで行った」
という体験談もすごいですね!今なら、絶対そんな場所、一般人を歩かせるなんて言うことあり得ないですよね!

作家で元日本財団会長の曽野綾子が、遂にどの本だったか突き止められませんでしたが、恐らく『昼寝するお化け』(小学館)、『地球の片隅の物語』(PHP研究所)とかのシリーズで、最近の若いひとたちは、地面は最初から舗装されていると思っている、なんて書いているのを10年以上前に読んだのを思い出しました。いや、そんなことはないけど…と苦笑しましたが、頭では分かっていても、改めて当時を知っている方のお話を聞いたり、you tubeなどで昔のニュース動画を見たりすると、舗装されていない、という現実の重さ、大変さが、今までよりは少し実感として分かってきます。

また、滋賀は第二の故郷様のこのコメントは、京都からの需要がちゃんとあったのだということもよく分かる、利用の好例とも言えましょう。


実は、私はほとんど全く帝産バスを撮ったことがありません。今回の記事の編集に当たり、初めてまともに帝産バスを中心的な被写体として撮影しました。

↓信楽行き

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[帝産湖南交通 石山・信楽線]の続きを読む
6月3日付拙稿1982(昭和57)年6月3日 「歓びの街 パル」オープンと、9日付拙稿80年代から90年代をかけぬけた「パル」の2回に亘って、石山商店街のショッピングセンター「歓びの街 パル」を取り上げましたが、1977(昭和52)年3月21日 宇治川ライン線開通などで素晴らしい写真をお寄せ下さった、まんたろう様がこれをお読みになって、新たな写真を提供して下さいました。

29年前の今日は、オープン1カ月で切りが良いので出させて頂きます。

遠景なので写りが不鮮明ですが、石山方面の眺め。赤い矢印をつけたところに、パルが見えます!赤い、ロールケーキのような模様があるのが何とか分かります。1993(平成5)-1995(平成7)年頃だそうです。



このロールケーキのようなマークがデザインされたレジ袋だけでもあったらうれしいですね。

続いて、何と「都会の中の漁港」が2台!?

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いきなりお金の話ではしたないですが、広告契約料はいくらなんでしょう?羽振りがいいです、「都会の中の漁港」w また、まんたろうさんもよく「都会の中の漁港」でピンときてこんな写真を見つけて下さったものです。
2001(平成13)-2002(平成14)年頃、草津駅西口で撮影されたそうです。ということは、もうパルはなくなっていますね。パルの外で商売を続けられているのでしょうか。何でもすぐにツッコミを入れたがる性格なので、3日付拙稿で「都会…?」なんて書いてしまいましたが、こういう大手スーパーにない味わいのある個人店もがんばって欲しいですね。