青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。

大正十四年二月一日、京阪電鉄は京津電気軌道株式会社を合併したが、この電車路線は旧東海道上に併用軌道として敷設されているため、他社の路線バスが免許される時には、全く併行する競争路線となるので、京都市三条大橋東詰から大津市御蔵町(浜大津)に至る十一・四 の乗合自動車営業を、昭和二年一月に申請し、二月十二日、山科町四宮の京阪電鉄京津線営業所において会社を創立し、翌三年一月に右の路線の免許をうけたのが京津自動車株式会社である。
資本金八万五千円、取締役社長に風間八左衛門(湖南汽船社長)が就任し、その後京滋地区における沿線バス事業統合の母胎会社となった。この会社が昭和五年六月京阪自動車に合併統合されるまでに経営したバス路線は次の通りである。
(後略)

(『京阪バス五十年史』P11 1972)



京津自動車の主力路線が京津国道線でした。上記にもある通り、今の大津営業所、山科営業所の京阪バスのルーツです。

京阪バス・京津国道線と京阪京津線とプール制だった時代もあるばかりでなく、上記の通り、そもそも京津線と他社バスが競争にならないようにするための砦が京津国道線のバスであり、その関わりは密接だったことが分かります。しかし、時代が移り変わり、もはや誰も参入してくるような路線でなくなり、結局並行する鉄道に道を譲ることになってしまったわけです。

今回は、数は少ないのですが、2006(平成18)年6月30日の最終運行日に撮影した写真で、京津国道線の東半分、山科大津線の最期を書きたいと思います。(社内での正式名称は「山科大津線」のようですが、歴史的な意味を考え、私は原則としてこの路線を「京津国道線」と表記します)

大津比叡平線のうち、浜大津始発の便の送りこみにも使われたため、下の写真のように、B車が充当されることもしばしばありました。1993(平成5)年までの大津営業所管轄時代も、B車がよく使われていたようです。

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京津国道線が廃止されてからも、京津国道線とほぼ同じルートで浜大津始発の比叡平行き用の車両が回送されていましたが、その1日2回だけの浜大津発比叡平行きも、今年2011(平成23)年3月18日限りで廃止されました。競艇場無料送迎バスの応援など、よほどのことがない限り、もはや浜大津-緑ヶ丘間で京阪バスを見ることはできないわけです。

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もう比叡平行きの出発準備で、京津国道線の表示ではないですが、今思えばこのエアロスターKのB車、B-1853も懐かしいです。

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京津国道線、最後の1往復は、わざわざ京津線かJRで山科駅に出て、乗りに行った記憶があります。
[2006(平成18)年6月30日 その時歴史が動いた?③]の続きを読む
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◆再度お知らせ
パソコンが不調のため、修理中です。既に書き上がっている記事については予定通りUPできるように設定済ですが、前回お知らせしておりました、コメントレスをまとめた新規記事は編集が間に合いませんでした。申し訳ありませんが、暫くお待ち願います。コメント、メールフォームのメール等は携帯から確認させて頂きます。ご了承のほどお願い致します。



2006(平成18)年6月30日の特集を続けます。もう5年経つんですね。早いものです。

今回は、18・28号経路 石山駅-唐崎駅系統です。

滋賀里(しがさと)までの路線は、1957(昭和32)年8月1日に開通しているので、廃止時点では49年の歴史があったことになります。

↓1957(昭和32)年7月30日付京都新聞滋賀版

S32.7.30KS 皇子山線運行開始

↓1957(昭和32)年7月31日付朝日新聞滋賀版

S32.7.31A 皇子山線運行開始

滋賀里以北、京阪電車沿いの現在の県道「浜大津伊香立線」は、詳細は調査中ですが意外に新しく、この時点では開通していなかったか、ほんの里道に過ぎなかったはずです。坂本に向かう路線は、161号を経由していたものと思われます。
県道開通以後も、滋賀里以北に行く路線は、名神大津など旧大津市内発着が基本で、石山駅始発は滋賀里止まりの時代が長く続きました。

京阪バスなどの運賃改定を伝える、1967(昭和42)年5月3日付滋賀日日新聞では、滋賀里始発で、石山駅に向かう路線は、市役所・国道経由市役所・湖岸経由柳ヶ崎・国道経由柳ヶ崎・湖岸経由の何と4つのパターンが運行されていたことが分かります。

この当時は西大津駅もありませんし、びわこホテル行きも開通直前(同年8月18日開通 詳細は昨年8月20日付拙稿主なき誕生日 「びわこホテル行き」43周年参照)なので、滋賀里は北部の一大拠点だったのでしょう。

↓長い間使っていなかった、詳しい方に作って頂いたアップローダを使って、下手クソな概略図を、これでも必死のパッチで大騒ぎしながら作りました。私をはじめ、大津市内の方は、字面でイメージできると思いますが、よその方もいらっしゃいますので…


石山駅以北簡略図

「ア○バ」とか、山科駅前でよくティッシュ配ってるのを、よく2、3回並び直してもらいつつ、そんなところでわざわざパソコンなんて習うひとなんているのかなと思っているんですが、私みたいな人間が、習わないといけないんでしょうねorz ホンマにこういうIT関係とか、何とか、何回聞いてもさっぱりチンプンカンプンですわ。

余談はさておき、肝心の滋賀里-唐崎駅間ですが、こちらの歴史はごく浅く、1987(昭和62)年1月18日、滋賀里までの路線を延長する形で開通しました。この約3ヶ月後に、南郷中学校系統が開通するのですが、私は唐崎駅行きの開通はおろか、「滋賀里行き」についても全く記憶がなく、南中系統との開通時期がこんなに近接しているだろうか?と思っておりました。しかし、『京阪時刻表』などの文献を見ても、これで確かなようです。

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↑最終運行日の滋賀里バス停。確かに少し広くはなっていて、どうにか折り返しはできそうです。
唐崎駅行きはここで右折して京阪電車の踏切を渡ります。6月24日付拙稿2006(平成18)年6月30日 その時歴史が動いた?�で取り上げた、比叡山坂本駅方面は、写っている郵便局の右手を抜けるように直進します。
[2006(平成18)年6月30日 その時歴史が動いた?②]の続きを読む
◆お知らせ

コメントへのレスが遅れており、申し訳ありません。思いがけない盛り上がりよう???なので、コメント欄でのレスの形でなく、近いうちにまとめて1本の記事とさせて頂こうと思います。


私が京阪バスにいた時にたえず電車の防衛線として、他社線の侵入を防ぐ様に防衛路線をどういう風に網を張ろうかという苦労をしたものである。他社が沿線に路線申請した時はすぐこれの対応で出願しなければならない。そして先方の線を不許可にするか、こちらに許可を受けるようにしなければならない。
(1927(昭和2)年京阪自動車買収当時の運輸課事業係長のことば)

(『京阪百年のあゆみ』P114 2011)  



2006(平成18)年6月30日は、大津営業所だけでなく、京阪バス全体の歴史の中でも、後々重要な意味を持つ日と評価されると私は考えています。以下の路線が、この日、最後の運行日を迎えるのです。

◆山科管内
46号経路(山科駅-浜大津)

◆大津管内
13号経路(石山駅-国道・湖岸連絡)
18号経路(石山駅-国道-浜大津-唐崎駅)
28号経路(石山駅-湖岸道路-浜大津-唐崎駅)
29号経路(石山駅-湖岸道路-比叡山坂本駅)


特に廃止時点での正式名称が山科大津線となっていた、京津国道線・46号経路は、昨年12月28日付拙稿「新生日本は輸送復興から!」京津国道線にトレーラーバスでも書きましたように、京阪バスの戦後復興を支えた、非常に重要な路線であります。また戦前も非常な活況を呈し、京阪バスの骨格の1つだった路線であり、その廃止は、単に西大津BP線以外で大津と京都がバスで直接行き来できなくなった、一路線の廃止、という以上の意味を持っていると思います。

また、比叡山線を除く一般路線の北端が大きく後退し、前身の前身の会社まで含めれば、京津国道線に負けない、大正にまでそのルーツを遡れる坂本方面の路線を失うということも重大な出来事だと思います。

京阪電鉄と他社バスの競争にならないように、という意味合いで設定されたバス路線でしたが、もはや他社が参入してくることなどあり得ない、という状態になったと考えられ、時代の変化の波は凄まじいです。

拙くて申し訳ないのですが、最後の運転の日を追い掛けた私の写真で、坂本、唐崎、京津国道の順に3回に分けてその日を振り返りたいと思います。現在の廃止区間の様子や、各路線の詳細については、その3回だけで取り上げきれませんので、今後、調査を進めながら書いていこうと思います。

13号経路だけは、紙幅の都合(と書いてから、紙ちゃうな、と思いましたが…)や、今年の10月1日が開通10周年の節目に当たることを考慮し、今回は取り上げません。

今日は、29号経路を取り上げます。

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[2006(平成18)年6月30日 その時歴史が動いた?①]の続きを読む
1993(平成5)年6月20日、18年前の今日、京阪バス大津営業所が、それまでの国道1号線沿い、本宮町から、国分の現在地に移転して、業務を開始します。これに先立つ16日が竣工でした。下の写真は正門です。

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これに伴い、大幅なダイヤ改正、路線の改廃があったのですが、残念なことに、私の手元にパンフレットなどは一切ありません。

私が分かる限りの主な変化を以下にまとめます。

◆廃止
2号経路のうち新浜(しんはま)以南
7号経路(石山駅/大石小学校-曽束)
8号経路(上千町-石山駅/国道市民病院/市民病院前)
53号経路(石山駅-南郷中学校-大石小学校-内畑 現・53号経路とは全く別の路線)

◆新設
30号経路(石山駅-国分一丁目-大津車庫)
31号経路(石山駅-国分一丁目-石山団地)
※昭和50年前後に存在したらしい旧4号経路 石山駅-国分町-石山団地が、その後開通した国分バイパス経由となって復活したと見ることもできる

4B号経路(大石小学校-内畑)
4C号経路(大石小学校-外畑)
4D号経路(大石小学校-曽束)
※大石小学校を拠点に、末端の3集落がフィーダー路線化

◆経路番号変更
9号経路(石山駅-大石小学校-寿長生の郷)→4A  
その他、この時に、石山駅以北各路線の番号規則が、それまでの国道経由偶数、湖岸経由奇数から、前者10番台、後者20番台に、変更になったものと思われる。

よく、読者の方や友人から、「行動範囲が広いね」と言われるのですが、実は本当は外出するのが嫌いで、石山駅より北の大半が私の中ではほとんど白地図状態で、大津市民病院辺りも最近滅多に行かないから、未だに「大津車庫」があるような気がして仕方ないのです。

↓現在の、旧大津営業所跡。



[京阪バス大津営業所移転18周年]の続きを読む

焼き残りたる骨灰は序の節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度、小生は彼の山のさみしき頂より思出多き筑紫平野を眺めて、此の世の怨恨と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候。

青木繁 姉妹あての手紙より



(今回、交通関係の話は最後に少しだけなので、ご興味のない方は飛ばして頂いても結構です)

先週、京都国立近代美術館の「青木繁展」に出かけました。企画展の時は、毎週金曜日に夜間開館をしているのがありがたい!金曜の晩は飲んだくれていることが多いのですが、忙しくても、たまにはこういう時間も必要です。

パンフレット表面の「海の幸」、裏面右上の「わだつみのいろこの宮」が特に有名で、重要文化財に指定されています。美術よりはどちらかというと社会の教科書で見たというひとが多いと思います。また、後者は切手の図案にもなっています。

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絵を見るのが好きな私も、今回は先述の2作品と、彼の名前しか知りませんで、白紙の状態での観覧となりました。
青木繁は、1882(明治15)年、福岡県久留米の、旧藩士の家柄に生まれました。
中学の時から言うことがやっぱり違いますね。勉強はどの教科もできるけど、学者で一生を終えるのも残念、政治は貴重な一生を投じてしまうほどのものでもない、という意味のことを言っています。そして結局、芸術こそ、
「男子の事業だ、そしてこの中に千萬の情懐を吐露し得るのだ」
という結論を見出します。一見傲慢なように見えるそのことばも、嫌味がなく、さっぱりとした力が漲(みなぎ)って見えます。


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父親から、「美術?武術の間違いではないのか?」などという反対に遭いながら、それでも東京に出て、絵の勉強を始めます。

学校を出てすぐ、一番脂が乗っている時に描かれたのが先述の「海の幸」でした。私は漠然と、担いでいるのは、カツオかマグロかな?くらいに思っていましたが、サメだそうです。言われてみれば口の形、ヒレの感じがそうですね。
1人だけ、こちらを向いている人物がいますが、そのモデルは、恋人・福田たねだと言われています。確かに、無骨な海の男たちの中で、1人端正な美少年のように見えます。

因みに一般に10人描かれていると言われているこの絵ですが、よく見るともう1人います。パンフレットでは両端が落ちてしまっていて分かりませんが、是非美術館に言って、実際に確かめてみて下さい。私が言っていることがどういうことか分かります。

しかし、天才は孤独です。
現在、代表作の1つで、重要文化財になっている「わだつみのいろこの宮」は思っていたような評価を得ず、父亡き後の家の問題、正式に結婚しないまま生まれた福田たねとの間の子どもをどうするのかといった問題も重なり、結核が悪化して、1911(明治44)年、28年の短い生涯を閉じます。
冒頭の姉妹あての手紙は、私は知りませんでしたが、亡くなる前に書かれた有名なもので、正式には「兜山」と呼ばれている久留米近郊の山に葬ってくれ、と頼んでいます。もちろん、本当にそんなところに墓を建てるわけにいかず、実際には石碑だけがあって、墓は近くのお寺にあるそうです。

この時には、福田たねとの間の子どもは5歳になっていた計算ですが、何と彼の母・青木まさをは自分の孫であるその子の存在を、青木繁が亡くなって初めて知ったそうです。突然孫が現れるなんて、どんな気持だったんでしょう?
このことは、展示されていた、福田たねの父親にあてた手紙の中で書いているのですが、達筆過ぎて読めなかったのが残念(汗。 明治44年という時代に、28の息子を持つ世代の、特に女性でそれだけの文章を書けたひとは決して多くはなかったでしょう。天才を生むにふさわしい、凛としたひとだったのだろうと思われます。

以前は「図録を買わないと美術館に来た気がしない」なんて思っていましたが、ゆっくり読む時間もなく、場所をとるので、最近は控えていました。でも今回は思っていたよりずっと感銘を受けたので、つい買ってしまいました。これが後で結構なお荷物になるとはまだ知る由もありません………。

[ケシケシ山の松樹の根に]の続きを読む

雨よけ、日よけに大助かり-このほど大津市別保三丁目の国道1号線沿いにある上別保バス停に、老人クラブの手でビニールテントが取り付けられ、近くの人に喜ばれている。
1977(昭和52)年6月15日付滋賀日日新聞



だいたい、バス停の日よけというのはバス会社がサービスで取り付けるケースがほとんどだと思うのですが、県庁前をはじめ、時々近隣住民や、利用者の善意で作られるケースがあるようで、国道1号線沿いの上別保もその1つです。



当時の利用者数は、一日平均300人だそうですが、今は京阪バスが2時間に1回、近江バスが1時間に1回しか通らないから、とてもそんなにいないでしょうね。

富士見老人クラブは、昭和46年から、バス停の清掃奉仕作業をして、美化運動を続けてきたそうで、その一環で、12万円かけてテントを建てたのだそうです。

記事には写真もありましたが、それは私も見覚えのある、上別保の浜大津方向のバス停なので、30年以上ほとんど様子が変わっていないらしいことに驚きました。

現在の現地を確かめに行くと、テントは、多分屋根の部分は傷みやすいから張り替えられているのでしょうけれど、基礎は恐らく当時そのままでした。



このテントは、乗客の喜びも悲しみも見つめ、京都方面の路線の廃止も見届け、時には雪で交通がマヒしている様子も見ながら、34年そこに立っているのに、もう多分、そんなことを知っているひとは、誰もいないのでしょう。
京都八日市線、今回は一般道経由だった時の道のりを辿りたいと思います。
5月30日付拙稿1963(昭和38)年5月30日 京都八日市線開通でも触れましたように、石山駅口から東では、6カ所の停留所に停まっていたわけですが、そこから西、京都方面は、現在の国道経由の路線や、京津国道線と重なりますので、そちらの方で書いていこうと思います。石山駅口から東に向けて順番に、現在の各停留所の様子を見てみます。

国道1号線沿いや、浜町、京町通などの旧大津市街のバス停に今もよく残っている、平成初期と思われる古い路線図(南草津駅がないので、平成5年以前?)には、「石山駅口」バス停が健在です↓
石山駅口以東、東草津までの京都八日市線(国道経由)が停まっていたバス停には、赤い枠をつけております。

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石山駅口―――そのバス停を覚えているひとが今どのくらいいるのでしょう。
しかし、草津方面については、今もはっきりとした跡を見出すことができます。

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チェーンで仕切られたこの不自然なスペースが、「石山駅口」のバス停跡です。

場所は、「粟津町東」という交差点のすぐ西です。



引用した地図は「Yahoo!地図」ですが、驚いたことに「石山駅口」を検索キーワードに入れると、未だに「マピオン」の地図が検索できます。




↓の写真は、交差点東側から、京都方面を望んでいます。滋賀銀行石山駅前支店の脇に、屋根つきの駐輪場が見えますが、そのすぐ西寄りに、最初の写真の、チェーンで囲まれたスペースがあります。

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この交差点の右手が石山駅なので、「石山駅の入口 ターミナル内ではない」という意味で、「石山駅口」と名付けられたのでしょう。多くの駅は、国道などの幹線道路から少し入ったところに設けられているので、中・長距離路線の中には、ターミナルに入らずに、こうした停留所で乗り換えの便を図ったバスが多いようです。

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ところで、京阪バスの京都八日市線八日市方面行きがこの写真の位置に停まっていたかどうかは微妙です。
というのも、開通の前年、1962(昭和37)年1月7日付滋賀日日新聞に、「青信号でも立ち往生 邪魔するバス停」という次のような記事があるからです。
[石山駅口【京都八日市線①】]の続きを読む
6月3日付拙稿1982(昭和57)年6月3日 「歓びの街 パル」オープンの続きです。
パルの開店時間は恐らく朝10時だったはず。29年前の今日はきっと、オープンから約1週間、ちょっと落ち着いたところ、でも、さあこれから!という活気に満ちていたのだろうと思います。

1982(昭和57)年6月4日付毎日新聞によると、

国、県から特定小売商業店舗共同化事業資金の融資を受け、総事業費約十五億円で工事を進めてきた。



とのことです。
前回も書いたように、1999年から2000年にかけての間でなくなっているので、オープンから17年の寿命だったことになります。意外なほど短いです。建物自体は、明らかにまだまだもったはずです。年換算8,800万円強、安いのか高いのか…。

結局、バブル景気を間に挟んでその前後を駆け抜けたわけですが、バブルの崩壊でどうこうした、というよりは、1995(平成7)年瀬田にオープンしたパワーセンター大津など、郊外型店舗の台頭の影響が大きいのではなかろうかと思われます。

そのパワーセンター大津も、数年前まであれほど賑わっていたのに、今はすっかりイオンモール草津に負けて、静まり返っています。本当に、小売業界の動向は毎日といっていいくらい変わりますね。

今の現地はマンションや駐車場になって、すっかり様子が変わってしまったことは、前回も書きました。現地に行くより、家で目をつぶる方が、当時の建物の様子が思い出しやすいくらいです。内部を思い出して、どこに何の店があったか図にすると面白そうだと思っていたら、1986(昭和61)年の『ゼンリンの住宅地図 大津市』に、簡単な図面がありました。店名そのままが出るのはいろいろ問題がありそうなので、一部加工しております。「?」は店名を見ても、何の店か分からない、思い出せない、確証がないところです↓

[80年代から90年代をかけぬけた「パル」]の続きを読む
5月19日付拙稿1962(昭和37)年5月19日 京都今津線開通の続きです。

もう一度地図を掲出します。




小浜へ向かうJRバス。

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かつての京阪バスや江若バスもこうしてここに停まっていたのだろうか?と思いかけて、いや、ここは線路側だったとふと思い出します。

写真で見る滋賀の20世紀など、江若鉄道があった頃の駅舎の写真も見ようと思うといろいろ検索できますが、「駅前」だったところは、今の通りからいえば、裏になります。

建物の北東から…。

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近づくと、庇の感じが、当時そのままです。

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今、駐車場のような広場になっているところが駅前で、そこにバスが発着していたのでしょう。
5月6日付拙稿下在地「江若バス史料館」~春の仰木①とともに、江若の歴史を物語る貴重な建物なので、何か案内板でもあって、建物が活用されると、結構観光客が集まるのではないかな、と思ったりします。

続いて私は、かつてあったという、「京阪バス今津営業所」の跡がどうなっているか調べようと思いました。

1963(昭和38)年10月14日付滋賀日日新聞

京阪バス会社では、このほどから高島郡今津町の今津署前に今津営業所の建設をはじめた。(中略)鉄筋コンクリート三階建て(一階軽飲食堂、二階会食堂、三階事務室)の事務所をスキーシーズンまでに建設、ドライブイン(バス五十台駐車可能)も併設するもの



中に入るドライブインは、最近刊行されたばかりの『京阪百年のあゆみ』(京阪電気鉄道株式会社 2011)のP296に、

64年1月10日には京阪ロードサービス株式会社を設立して、今津ドライブインの経営も始めた。



という記述があるので、そのことだろうと思われます。

最初、記事の「今津署」というのを見て、今の高島警察署のことだと単純に考えていましたが、実際に現地に行ってみて、江若の近江今津駅からは遠いそんなところにわざわざ営業所を作るかな?と考え直し、江若の近江今津駅からほど近いこの高島市立今津図書館で調べ直してみました。

↓大津市立に負けないきれいな図書館です。

[幻の「京阪バス今津営業所」 (京都今津線①)]の続きを読む
「歓びの街 パル」

その名前を聞いて、懐かしさで胸がいっぱいになるひとが、石山、南郷など、大津市南部には少なくないのではないかと思います。しかし、ネットで検索しても、私が見た限り、ほとんど何も出てきません。
5月19日付拙稿1962(昭和37)年5月19日 京都今津線開通の続きを近日中にUP予定ですので、その後、10日前後と今回と2回に分けて、誰も語らなくなってしまったらしい、「パル」を特集したいと思います。

↓青い目印が、当時の「パル」の位置です。



29年前の今日、1982(昭和57)年6月3日、石山商店街に、その、今は亡きショッピングセンター「パル」がオープンしました。
なくなったのがいつだったかははっきり思い出せませんが、1999(平成11)年の住宅地図にはその名があり、翌2000年には「マンション建設予定地」になっているので、その間であることは間違いありません。もう10年以上経ってしまったんですね。

↓松原バス停付近から、石山駅と逆、南の方向を臨む。文具店「晴嵐堂」と、その南隣の店は当時からそのまま、その店を挟むようにして、北と南に2つの玄関、屋上駐車場のスロープがありました。

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↓の写真は、旧北玄関付近。この辺りから、屋上の駐車場に伸びるスロープもありました。

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1979(昭和54)年6月22日正午前、ここにあった「丸栄百貨店」とこれに隣接する「丹丸百貨店」が焼失する火災が発生、その後を受けて、両百貨店を合わせる形で作られたのが「歓びの街 パル」だそうです。

因みにこの時の火事は、当日、工事のために供給を止めていたガスの代わりに使っていた、丸栄百貨店内のお惣菜屋さんのかまどの煙突が過熱したのが原因だったそうで、これを伝える1979(昭和54)年6月23日付読売新聞滋賀版を見る限り、死者、けが人がなかったのが不幸中の幸いでした。新聞記事からも、客を誘導したり、商品を少しでも運び出そうとする店員たちの慌てぶり、不安が伝わってきますが、あの狭い商店街で火事が起きたなんて、どんな恐ろしい騒ぎだったことでしょう。鎮火まで2時間がかり。当然、消火活動のため、目の前の通りを走る、草津方面、南郷・大石方面、田上(たなかみ)方面のバスの運行なんかできなかったでしょうから、東レの方や、国道を迂回したのでしょうか。

さて、そんな不幸を乗り越え、「パル」がオープンします。

1982(昭和57)年6月4日付毎日新聞滋賀版は、「北部に負けておれぬ」という大きな見出し。

[1982(昭和57)年6月3日 「歓びの街 パル」オープン]の続きを読む