青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
京阪バス、特に滋賀地区の路線について調べれば調べるほど、今まであまり意識したことのなかった、江若交通について知っておかなければならないことを思い知らされます。大津以北でしか見かけない江若交通は、子どもの頃はあまりなじみがない存在で、京阪系の会社だということも最近まで知りませんでしたが、思っていたよりずっと関係が深いことが分かってきました。

1969(昭和44)年10月31日、浜大津/膳所と湖西の今津を結んでいた江若鉄道が廃止されます。この辺りのことについては、他に詳しいサイトさんがいくつかあるようですし、昨日、記録動画は取り上げさせて頂きましたので、そちらをご覧頂くとして、今日、私が注目したいのは、バス代行輸送です。

国鉄湖西線の開通と入れ替わりに江若鉄道が廃止されたわけではなく、1974(昭和49)年7月の湖西線の開通まで、約5年、湖西方面には、坂本以南の京阪電車を別にして、鉄道が全くなかったことになります。この空白を埋めたのが、社名を「江若鉄道」から改めた「江若交通」と、そして、以前から重なって走っていた京阪バスなのです。

江若鉄道は1961(昭和36)年から京阪系列の会社となり、連絡乗車券なども販売され、関係の深い会社でした。それ以前から、京阪バスは、京都今津線などを運行し、江若鉄道バスのエリアに入り込んでいました。

このバスの代行輸送は湖西線の全面開通する四十八年三月まで約三年半にわたって運転されるがその発車に備えて、会社側は、新しく三十四台のバスを購入、合計百十三台を総動員して、急行、区間急行、堅田急行バスを含む浜大津-今津間四十二往復(うち京阪バス十二往復)浜大津-堅田間百七十二往復(同二十五往復)のダイヤを編成、足の確保につとめることにしている。
1969(昭和44)年10月31日付サンケイ新聞


浜大津-堅田172往復!今の約5倍です。仮に朝の6時台から夜10時台まで運行していたとすると、1時間当たり平均約10本!仰木の里もびわこローズタウンもなくて、まだまだ開発はこれから、という時代にこれほどのバスを動員するということは、いかに江若鉄道の輸送力が頼りになっていたかということでしょう。今なら完全にパンクでしょうね。

利用者の特に多い浜大津-堅田間は全面的にワンマンカーに切り替えられ乗車券、定期券も競合区間は江若、京阪両バスとも共通となる。
1969(昭和44)年10月31日付サンケイ新聞



この制度は、実は40年以上経った今もその名残を残しており、あまり知られてはいませんが、京阪バス大津北地区の定期券や、特別定期券で江若交通の際川以南に乗車できますし、江若交通の定期券も重なっているところで使えます。また、京阪バスの紙式回数券はコミュニティバス、琵琶湖大橋線以外、基本的に江若交通全路線で今も使えますし、逆に江若交通の回数券は大津地区の京阪バス全線で利用可能です。比叡平とか、山科管轄のところはどうなのかとか、多少疑問は残りますが…。
あと、京阪バス29号経路(石山駅-湖岸道路-浜大津-比叡山坂本駅)が平成18年に廃止されるまでは、共通乗車区間に「坂本ケーブル乗場-日吉大社間の乗降を除く」(だったかな???)という例外規定があったのは大きな謎です。

サンケイ新聞が書いている「競合区間」がどこなのかが分かりにくいのですが、京都新聞には、

浜大津-近江今津間と比叡辻-日吉大社前間とも双方の乗車券、定期券でいずれのバスにも乗れることになる


とあります。京阪バスにも江若交通にも、京阪坂本駅行きや日吉大社行きがあったようで、京阪石山坂本線への乗り換え客の便を図っていたようです。現在は、片道1日2回だけしかない、比叡山坂本駅発堅田駅行きが、その名残をとどめています。

江若交通との関係やこの当時の様子については、たくさんの記事があるのですが1回では取り上げきれませんので、今後も、実地調査を含めながら、断続的に取り上げます。
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1969(昭和44)年10月31日、浜大津/膳所と湖西の今津を結んでいた江若鉄道が廃止されます。41年前の今日は、最終運転日の前日、ということで、鉄道ファンや地元のひとが名残を惜しんでいたことでしょう。

2006(平成18)年、大津市歴史博物館で、「ありし日の江若鉄道」と題する企画展が催されました。正直なところ、江若鉄道に特別な関心があったわけではなく、行こうかどうしようか迷って、京阪系の会社で、何か参考になることがあるかもしれない、と思って、結局最終日に行ったようなありさまでした。
結果的にはとても面白かったです。三条京阪-浜大津間で京阪バス・京津線に共通乗車できて、江若鉄道に連絡する乗車券なども展示されていて、京津線と京津国道線がプール制だったのだということを社史以外で改めて知りましたし、京阪系列としての予想以上の関係の深さも理解できました。何よりも、生まれるよりずっと前の時代なのに、何とも言えず懐かしかったのを覚えています。この展示の図録は、江若鉄道に関する文献資料が非常に少なかったこともあり、予想外の大反響で、企画展終了後、図録としては異例の増刷が行われました。

ありし日の江若鉄道

大津市歴史博物館に行くと、正面玄関を入ってすぐのホールの右手の方で、大津市の歴史にかかわる様々な動画を見ることができるのですが、そのうちいくつかは、you tubeでも見られます。

何気なく、「大津」「江若」などのキーワードを入れて、見つけた江若鉄道の動画です↓




80年代以降のように、ビデオカメラが普及していた時代でもないのに、こんな動画がよく残っていたなあと思います。決して画質がいいわけではないのに、なんて美しいのだろう、と息を飲みました。変な言い方かもしれませんが、日本というのはこういう国だったんだ、滋賀県というのはこういうところだったのか、と懐かしさと切なさに胸がいっぱいになりました。

余談ですが、前半のBGM、村松健「素直になれたら」が画像と不思議によく合っています♪動画の最後に4曲のBGMのタイトルが出るのですが、これが一番だと思います。短いし、音が少なくて簡単そう、と安易に考えて弾いてみたのですが………黒鍵が多くて、結構指が苦しいし、覚えにくい(^_^;)濁りを楽しみつつ、濁らせすぎないぺダリングも私のレベルでは難しく、撃沈(汗。

因みに、上の江若の動画をUPされている同じ方が、昭和40年頃の大津の動画もUPされています。これも歴史博物館で見られます。







その2の0:56辺りで、どこかで見たことのある赤と白に染め分けられたバスと、薄汚くも愛おしい石山駅…。この時代でカラーの動画はもちろん、写真さえもほとんどないので、生々しさに肝をつぶしました。今は整備されたけど、反面、当時ほどの活気や活力は感じられない気がします。

同じくその2の8:30頃に、岩間山中腹の辺りから撮影したと思われる、滋賀大の遠景が写るんですが、ホンマに、滋賀大以外には、千町の旧家がチラホラあるだけで、何もなくて驚かされます。

その3の4:00辺りでは瀬田川(南郷)洗堰が登場しますが、付近の余りの寂しい風景に唖然。先述のその2と重ね合わせると、京都や大阪から嫁いできたひとの、「なんて寂しいところだろうと思った」という感想や、大津の街中のひとの、「石山寺より南に人間なんているのか?と思っていた」という冗談半分のことばが、こういうVTRを見ると、大げさな話ではないのだな、と思います。

私は石山が地元なので、やはり石山のことが出た部分に関心を持ちましたが、ご覧になった他の方はどの部分に特にご興味を持たれましたでしょうか。

因みに、今日から、「大津百町大写真展」が、JR大津駅などで開かれます↓

大津百町大写真展パンフ

私も行きましたら、またルポさせて頂きたいと思います。
資料を整理していたら、1972(昭和47)年3月17日の京都新聞に、京都市交通局が中書島と円山公園にターンテーブルを設置する計画であるとの記事が載っていました。

ターンテーブルは直径七メートルの円盤を地面に埋め、その上にバスが後輪を載せるとテーブルが自動的に回転。バスの方向が変わる装置。
(略)
中書島は市電伏見線の廃止によって四十五年から81号(京都駅-中書島)82号(中書島-四条河原町)21号(醍醐-東土川)22号(中書島-東土川)の4系統が運行しており、府立伏見公園の一部でUターンをしている。



なるほど、私は後輪を回すとそれでターンテーブルが連動するのだろうか、でもそれでは前輪も回るな…と思ったのですが、後輪でスイッチを踏むということのようですね。

府立伏見公園は、今の伏見港公園のようです。そこが、子どもが多くて危ない、ということで、ターンテーブルを設けることになったようです。ターンテーブルができる前に、伏見港公園のどこでターンしていたのかまでは分かりませんが、結局今、その近くでターンすることになったわけですね。

因みに、祇園の方のターンテーブルのことは今調べてもよく分かりませんでした。
昨日の続きです。

写真をお出しする前に、なぜこの拡幅工事が行われたのか、当時の新聞記事を確認してみます。1985(昭和60)年12月7日付産経新聞

京滋バイパス開通(六十三年全面開通予定)に合わせて、県は大津市の京阪石山寺駅-南郷洗ぜき間(三・六キロ)の国道422号線の車線拡幅と、歩道整備に着手することを決め、6日までに用地買収を始めた。

なるほど、京滋バイパスの開通が絡んでいたんですね。
また、石山寺周辺については、

石山寺の門前付近は直角に近い急カーブが続いているため、車線拡幅に合わせて緩やかなカーブに改良して、車の流れをスムーズにする。



とあります。

また、工事の3割が終わった段階の、1989(平成元)年2月18日付の京都新聞では、

周辺は県内有数の風光明美な観光地でもあり、県は「景色を損ねない魅力的な道にしたい」としている。



と書かれていますが……石山寺付近の旧道の処置に関する限り、微妙な気が…。

さて、再び歩き始めます。この辺りは、旧道の半分くらいが新道とかぶっているようですね↓

IMG_2015.jpg

中央に草が生い茂っていたりして、あまりきれいでないので、訪れた観光客の目で見ると、ちょっと興ざめかもしれません↓

[1988(昭和63)年10月23日 石山寺新道乗せ替え②]の続きを読む
1988(昭和63)年10月23日、22年前の今日、京阪石山寺石山寺山門前の間に、現在使われている新道が開通し、バス路線も乗せ替えられました。もともとの道は、下の地図を比較して頂くと分かるのですが、今よりずっと曲がりくねっていました。
(左 昭和58年 「奈滋和市街地図集」大阪人文社より  右 平成20年 「滋賀県都市地図」昭文社より)

石山寺付近 昭和58年 石山寺付近 平成20年

先日、旧道跡を南から辿って歩きました。
南側の始点はもちろん、石山寺です。紫式部が源氏物語を書いたとして知られる、大津市屈指の観光地です。これから紅葉のシーズンが素晴らしいですが、今はその直前で、静かです。

s-IMG_1997.jpg

桜も有名で、4月初旬の山門はこんな感じです。
[1988(昭和63)年10月23日 石山寺新道乗せ替え① ]の続きを読む
共通語ではないかもしれないけど、少なくとも「関西圏では共通だ」と思っていたことが、実は滋賀県でしか通用しないらしい???ことに気づいて、最近ショックを受けたのが、「みざら」ということば。

「せやけど、学校は普通みざらで靴履き替えるやろう?」
と大阪の友だちに言ったら、怪訝な顔をするので、何が分からへんにゃ?と少々イライラ。
「みざらで履き替えるやんけ
すると…
「…みざらて何…?」
「何言うてんにゃ!みざらて、学校の玄関や体育館で靴履き替える時とか、板でできた…ほら…」
と絵に描いてみせると、それは「すのこ」だと彼は言うのです。まあ、すのこと言われたら、そういうことばもあるのは知っているのですが、何かしっくりこない…。

そうか、京滋だけなのかな?と思って、京都在住の同僚数人に言ったら、これまた口ぐちに分からないといわれて、十分衝撃を受けたのに、守山出身の後輩から、半笑いで、
「多分、『みざら』は滋賀でしか通じないんですよ」
といわれ、何だか取り残されたような気分になってしまいましたorz

本当に、他府県の方はご存知ないのでしょうか?

因みに、子どもの時は、じゃんけんでもショック…。
私たちは、
「ジャイケンでホイ!」
と独特なイントネーションをつけて言っていて、少なくとも関西共通なのだろうと思っていたら、枚方のいとこに、
「ハァ?何それ?インジャンホイ、やろう?」
と爆笑されて、しばらく、自分からじゃんけんの掛け声を発することができませんでした(>_<)



みざら

これは…みざらや……???
先日、JR KYOTO ISETANの「モーリス・ユトリロ展」を見に行きました。ユトリロ(1883-1955)は大好きな画家の一人です。日本初公開の作品ばかりとのことで、大いに期待しておりました。

解説は、ネットでたくさん出てきますが、シュザンヌ・ヴァラドンというもともとモデルだった女性画家の私生児として生まれ、自分の美しさを生かして恋に仕事に生きる彼女からあまり愛情を受けられず、その寂しさを紛らすため、何と10代のころからアルコール依存症だったことは有名です。自分を画家だとは思っていなくて、とにかく安酒が欲しいために、酒と引き換えに絵を描くような生活を続けていたそうですが、その割に、亡くなったのが71歳なので、意外に長生きだな、と思います。何回か精神病院に、入院…というより、文字通り「収容される」という状態の時もあったといいます。変な言い方ですが、いつ自殺してもおかしくないのに、そういったことは聞いたことがありません。本当は強いひとなのでしょうか。

印象派が郊外での創作に没頭していた時代、彼はむしろ何気ない街角や建物を中心に描いています。一般によく知られるのは、「白の時代」で、多くの方も、ユトリロと言ってイメージされるのは、白い漆喰の壁、ひとけのない通り、といった寂しい絵だと思います。漆喰の雰囲気を出すために、漆喰そのものや、卵の殻、ハトのフンまでも絵の具に混ぜたというのも有名な話です。
しかし、今回の展覧会は、「色彩の時代」等、他の時代の絵もかなり多く取り上げられ、今まで持っていたユトリロ観が変わりました。

白の時代の絵は、見れば何となくユトリロだろうな、と分かるのですが、色彩の時代だと、言われなければ印象派の誰かかな?と思ってしまいそうです。

ユトリロ目録

でも人物を描くと↑…何だかバランスが悪く、描き慣れていないようにさえ見えるのは私だけでしょうか。この歩いているひとたち、背が高すぎて、通り沿いの家に入れない…。一般に彼の絵は、建物の遠近感はよく出ていて、近いところから遠いところへ、自然と視線をいざなってくれるのですが。
そもそも、ユトリロの絵でひとが出てくる、ということ自体、意外でした。決してひとを書かないと思っていました。サイズがどうとか、そういう風に見る絵ではない、と言えばそうかもしれませんが、ひとと関わりたくてもうまく関われないという葛藤のようにも見えます。

ユトリロ目録表紙

展覧会に行くと、ついミュージアムショップで要らないものを買うクセが…。目録買わないと、展覧会に行った気にならないこの性分、何とかしないと…。後でゆっくり見よう、と思うのですが、そういう時が訪れた試しがない(^_^;)

ユトリロ展出口

ところで、皆さんは美術館、博物館、或いは百貨店の美術展などに、行くとしたら何時頃に行かれますか?

私は、展覧会の規模にもよりますが、大体、閉館と同時に会場を後にできるよう、1-2時間くらい前に会場に入るようにしています。閉館30分前になると、新たな入場ができなくなるため、そこからが私の本番!元来た道を入口まで戻って、誰も入ってこなくなった会場を、特に気に入った作品や混んでいてゆっくり見られなかった作品を重点的に見ます。これが至福の時

大丸などの場合「トワイライトサービス」と言って、18時以降の入場は料金が半額になるのも魅力
それでいながら、時には会場がほとんど自分1人の貸切で、あたかも画家と対話するような気分で、仕事帰りにゆったりした時間を過ごせます。

ユトリロ展は明日まで開催、まだ間に合います。
今からかれこれ55年前の昨日、大津地区の京阪バスで、ダイヤ改正が実施されました。
社史にはなぜか全く記載がありませんが、規模はかなりのものだったようで、朝日新聞、読売新聞、滋賀新聞、京都新聞と、私が調べた限り4紙で取り上げられておりました。

各紙で書かれていることを総合すると、

・発車間隔をできるだけ等間隔に
・石山寺-三条の直通を廃止(京阪電車の話ではありません、京阪「バス」です)
・京都駅-和邇(わに)を廃止、大津駅-和邇線、三条-雄琴線を新設
・国鉄石山駅-外畑間を、浜大津まで延長


といった具合で、今となっては考えられないような路線の数々です。
9年後の1964(昭和39)年発行の全国バス路線便覧では、石山寺-京阪三条の路線があることになっているので、後に復活したのかもしれません。
和邇なんて、江若みたいですが、京阪バスの話なんです。この頃は、湖西方面に結構普通に京阪バスが走っていますが、昭和36年に江若鉄道が京阪グループ傘下に入るまでは、赤の他人の会社なので、よく入り込めたものだな、と思います。
因みに、京都今津線の開通は、1962(昭和37)年5月19日です。

一番詳しかったのは朝日新聞滋賀版です(原紙は、広告などの都合で、記事が分割されていたので、ここでは編集してくっつけています)。

S30.10.15 朝日新聞

社史では1958(昭和36)年4月3日「浜大津瀬田線新設認可」と書かれていますが、本ブログを最初からご覧の方は、瀬田系統は少なくとも昭和27年には開通していることをご存知だと思います。浜大津どころか、三条から直通していたことが、この記事で分かります。

次の2つはいずれも滋賀日日新聞(廃刊=京都新聞系の会社で、京都新聞滋賀本社がその流れをくんでいる)の記事で、上が10月15日付、下が10月17日付です。90年代、一時的に走っていた、27号経路 外畑発石山駅、湖岸道路経由浜大津行き(一部新浜発着)が、外畑発着で浜大津まで直通した最初で最後のバスだと思っていたら大間違いで、外畑-浜大津間の路線は、実はかなりの歴史があります。

S30.10.15  滋賀日日新聞

S30.10.17 滋賀日日新聞

以下、読売新聞滋賀版、京都新聞滋賀県民版の順です。

S30.10.15 読売新聞
S30.10.15 京都新聞

なお、各記事にみられる「近江学園」は、この時できた行き先のようですが、「この子らを世の光に」ということばで有名な、糸賀一雄が設立した知的障害児施設、滋賀県立近江学園のことです。位置は、今の「岡の平」です。「新浜」などという行き先ができて、実はまだ30年もたっておらず、長い間、岡の平(近江学園前)が、区間運転の折り返し地点でした。今でこそ宅地開発が南郷バス停周辺から南進してきていますが、つい最近まで、周辺に何もないバス停でした。

それにしても京津国道線の本数の多さに驚かされます。京阪京津線はもちろんあるのに、これだけの本数が走っていたということは、自家用車が普及していなかったこと、国鉄がそれほど便利ではなかったことが背景にあるのでしょう。もちろん、滋賀県内の東海道線は全く電化されていません。

前回に続いて、樟葉中書島線…と言いますか、T.F.様から写真を頂戴したので、中書島のターンテーブルを取り上げます。一応前回の続きであることから、便宜上、今のところはカテゴリは「大阪」としております。ご了承願います。

まずは大変貴重な、樟葉中書島線、開通から間もない、1984(昭和59)年5月5日の撮影。ナンバーは大阪22あ4137、社番はA‐3401、もちろん枚方営業所所属です。


中書島 大阪22あ4137

奥にぶら下がっているひもがスイッチだと思われます。
因みに、この10年前、1974(昭和49)年10月27日に、同じ場所でT.F.様が撮影されたのが、以下の3枚です。
中書島1
中書島2
中書島3

私は、「東土川」行きの市バスはリアルには知らない世代なのですが、もっと年上の方だと非常に懐かしいのでしょうね。

因みに、この時は、まだターンテーブルに電動のスイッチはなく、撮影者様の説明によると、3枚目の写真の後輪のところに写っている円形のものに後輪を当てて、エンジンをかけてそれを回すとターンテーブルが回る仕組みになっているそうです。アクセルを踏んで後輪を回したら、前輪も回るだろうと思うのですが、その辺りがよく分かりません。

2004(平成16)年10月発行の「バスマガジン」Vol.7の「現役ターンテーブル大図鑑」では、電動スイッチが一番多く、1965(昭和40)年頃から普及し始めた、と書かれています。

結構知られていると思いますが、現在はこの通り、駐輪場になってしまっていて、もはや当時の痕跡はありません。駅本屋(えきほんおく)の西側です。

中書島現状

N-3899様がコメントして下さった、長岡京駅は、先述の雑誌では残念ながら取り上げられていませんでしたし、私も一度だけ行った時、その存在に気が付きませんでした。また確かめたいと思います。
生まれて初めて乗った、大阪の京阪バスは、今は亡き樟葉中書島線です。廃止2週間前の2005(平成17)年7月16日、中書島から、樟葉まで乗りました。自分でも驚くほど、意外に最近なのです。
大阪の京阪バスは、私にとっては、遠い憧れ???のような存在で、子どもの頃はインターネットなんて影も形もないですから、実物や、写真で見る時、大津と同じ車種でも、違う車種(今思えば日野)でも、親しみと違和感と綯い交ぜになった不思議な感覚を味わったものでした。

枚方高槻線とか、もっと典型的なところでなく、何ともマニアックなところですが、京滋エリアの京阪バスと、大阪の京阪バスとが接している、貴重な場所であり、この、糸のような細道を通って、大阪に向かおうとしたのでした。ここで、整理券番号が変わる時のチャイムの存在に驚いたことは既にお話ししたかと思います。

この路線についても、以前、藤尾・小金塚の資料をご提供下さったT.F.様から、貴重な資料をご提供頂きました。路線開通当時の一般向けの案内のようです。本ブログでの公開を認めて下さいましたので、以下に掲示させて頂きます。

運行開始は1983(昭和58)年6月3日です。

樟葉中書島線開業1  樟葉中書島線ダイヤ・運賃  樟葉中書島線運行経路図1  樟葉中書島線運行経路図2

運行経路図のベースになっている地図は古いもののようで、「八幡市」が「八幡町」になっています。1977(昭和52)年11月に市制を施行しているので、それ以前ですね。

樟葉中書島線開通1  樟葉中書島線開通2

運賃は、中書島-西大手筋のわずかバス停1つ分だけは、恐らく京都市交通局の均一、久御山町域を中心とする路線の大半は京阪宇治交通との調整と思われる対キロ区間制、樟葉周辺の均一と、3つの体系にまたがるため複雑です。恐らくまたがる際は、基本的には対キロ区間制で計算しているのだろうと思います。
ダイヤは8往復、少ないといえば少ないし、沿線の環境を考えればこの程度かとも思えますし、微妙ですね。

運行経路図は、「中書島」で末端のように書かれていますが、1997年以降は循環になっていました。「中書島」で末端ということは、この当時は、有名な「ターンテーブル」が使われていて、そこでターンしていたのだろうと思われます。今の改札横の自転車置き場の辺りだったそうです。

T.F.様からは、ターンテーブルの写真もご提供頂きましたので、別途出させて頂きます。