青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
今日は、昨日もご紹介しました通り、1976(昭和51)年9月30日開通の、内畑系統の34歳の誕生日です。なぜ月末の、それも木曜日という中途半端な曜日だったのかが不思議ですが、この前日に、最後まで残っていたボンネットバスが車検切れとなり、9月11・12日の拙稿で書かせて頂いた通り、完全ワンマン化が実施されたということで、大津営業所としては、かなり大きな動きのあった日のようです。

バスが外畑を出ると、運転手さんが忘れていない限り、大抵すぐに、
「次は 内畑 内畑 終点です」
とアナウンスされますが、その遠いこと遠いこと。2キロほどあります。普通なら4つか5つバス停がある距離です。京阪バスの中では、バス停間の距離がかなり長い部類に入ると思います。
 外畑から1キロ少々走ると、このような、見落としそうな細い道が右手に続いているのが見えます。ここ20数年の間に、京滋バイパスの南郷ICに続く道など、右に曲がる道が何本かできて、紛らわしいので、「石山内畑町」と書かれた看板がないと、本当に通り越してしまいそうです。

内畑口1

同じ場所でアングルを変えて撮影。「内畑 0.8K」と書かれているのだと思いますが、かなり読み取りにくいです。
ここには、宇治川ライン線の「内畑口」というバス停がありました。もはやポールがどこだったのかは分かりませんが、周りに民家や施設があるわけでなく、内畑系統が停まっても意味がないためか、停まるのは宇治川ライン線だけでした。

内畑口2

少し道を入ってから宇治川ラインを振り返ったシーン。

内畑道中2

同じ地点から内畑方面を臨む。

内畑道中3

カーブの繰り返しで、見通しはあまり良くありません。

内畑道中4

昼なお暗い林を進みます。

内畑道中5

一番きついカーブから内畑方面。バスが開通する時に、市や自治会が道を拡幅したり、回転できる場所を作ったりして協力したようです。

内畑道中6

京滋バイパスのガードをくぐります。

内畑道中7

途中でバスが現れると↓の写真のような感じです。平日の朝夕は、2年前の減便以後も、S車1台だけでは物理的に回せないダイヤなので、こうして大型車が現れることもあります。最近は、朝7:05発にW-1202かW-1999がよく使われています。
因みにこのバスは大石小学校7:28発の石山駅行きになり、石山駅からは折り返し8:10発の滋賀大学直通便になります。

W-1202 

ここ数カ月、W-1202のリアの表示の調子が悪く、最後の1文字がよく見えませんが、新しくプログラムされたためか、大津管内では非常に珍しく、リアでは略されることが多い経由地表示(曽束)が入っています。

W-1202 リア


もうあと少し!

内畑道中9

着きました!この時はW-1999が使われていました。

W-1999 内畑

山科営業所管内の「小山」は1軒の民家の周りをバスがターンしていくことで有名ですが、ここでは、「石山内畑町自治会館」の周囲をうまく回転します。回送や、内畑行きは、上の写真の右手にチラッと写っているポストのある側を通って、自治会館の裏手を回り、バス停に滑り込み、乗降扱いを行います。
裏手から撮るとこんな感じです↓

A-3768 内畑

夕方の大石小学校で…W-1202。かつて、石山駅始発だった頃は、2 外畑・内畑と、普通の経由地表示と違って、「外畑」も「内畑」も同じ大きさの文字で表記していました―――

W-1202 内畑行

2008年11月のダイヤ改正前の車内掲示。

車内掲示

内畑は、京阪バスの中では、末端中の末端の1つですが、かつては、岩間寺への参詣の道筋として、重要な場所でした。歴史ある集落の中にあって、バス路線はまだ34歳と若いですから、集落と一緒に、静かに歴史を刻んでいってほしいものです。

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内畑系統が明日、「34歳の誕生日」を迎えます。

内畑は、正式には大津市石山内畑町と言い、現在は20世帯あるかどうかの小さい集落です。川沿いにある外畑に対して、山手にあるから内畑と言うのだろうな、と思うのですが、昔から兄弟村として関係の深い集落だったと言われています。膳所藩が成立した時は、まとめて「畑村」と呼ばれ、後に分離したそうです。

路線バスの開通は、外畑が、京阪バス全体でも最古級の由緒があり、大正にまでそのルーツを遡ることができるのに対し、内畑は1976(昭和51)年と、圧倒的な若さです。

開通の記念式典の写真などは、新聞記事には載っていませんでしたが、1976(昭和51)年9月28日付京都新聞大津市民版によると、自治会が長年にわたって路線バス乗り入れを要望しており、7:04の始発に先立って、市の助役、京阪バス専務なども出席して、6時半から開通式を行う旨が書かれております。

新路線は、京阪バスが外畑モーターボート乗り場(石山外畑町)まで一日十四往復運行しているうちの四往復だけ、内畑町まで延長することになった。



もちろん、この当時は今のような大石小学校始発のフィーダー路線ではなく、石山駅から通し運行、経路番号は外畑、大石小学校と同じ「2」が割り振られていました(大石小学校は後に現在の「4」になる)。開通当初は分かりませんが、フィーダー路線化される前は「2 外畑・内畑」と表示されていました。

1日4本ということは、今の平日ダイヤの半分ですが、石山駅まで直接行けたのは大きなメリットだったと思います。また、2キロ離れた外畑までわざわざ歩く必要もなくなったというのも、地元のひとにとって、嬉しいことだったでしょう。

1976年に開通した、と言っても、その後、さまざまな変遷を経ております。

○1987(昭和62)年4月8日 
大津市立南郷中学校開校に伴う、旧53号経路(石山駅-南郷中学校-大石小学校前-内畑)の開通

(同じ日か分からないが、この頃に)
2A号経路(内畑⇒大石小学校前⇒石山駅)の運行開始
 

○1993(平成5)年6月20日
大津営業所移転に伴うダイヤ改正で曽束、外畑、内畑各系統のフィーダー路線化

○2008(平成20)年11月1日
フィーダー路線化後も唯一残っていた南郷中学校行き直通便の廃止、南大津大橋・曽束経由の4F号経路の設定

こうして書き連ねると、歴史が浅い終端部分である割に、時代の変遷に翻弄されているような印象を受けます。

写真は、廃止直前の「南郷中学校行き」。先述のダイヤ改正により、外畑始発になり、土曜日の運転がなくなりました。08.10.11 内畑

「誕生日」を記念し、明日もちょっとした特集を組もうと思います。

中書島に京阪のミュージアムトレインが来るとのことでしたので、行ってきました。
多くの方は、中之島の方に行かれたようですが、私は遠いので、中書島まで来てくれるのを待っていました。
京阪「バス」のことはともかく、京阪「電車」の方は全くの素人なのですが、参考になることがあればと思ったのです。

その前に、京阪バスの聖地???「京阪バス発祥之地」の石碑を見に1つ北寄りの伏見桃山に行ってきました。
京阪伏見桃山駅と、近鉄桃山御陵前駅の間です。京阪バスは、ここと桃山御陵を結ぶ路線を開設したことにその歴史が始まり、合併や分離を繰り返して現在の姿になりました。
下の説明を読むと分かるのですが、たった0.8キロから全てが始まったんですね。千里の道も一歩からです。

京阪バス発祥之地石碑   碑文

近くに後継会社の路線がある京阪宇治交通の発祥の地の石碑(宇治田原町岩山)と違い、ここには路線がなく、周りは賑やかであるが故、一層寂しいです。
1997(平成9)年7月26日まで、旧京阪宇治交通の110系統が1日2往復だけ走っていて、近鉄のガード下付近に「京阪桃山」バス停があったそうです。
ただ、「寂しい」と書いておいて矛盾するようですが、下の写真の通り、バスが走るのは苦しい道です。

伏見桃山


うわ~!今日は何かのお祭りか、と思うような賑々しさ。浜大津のシャッター通りに慣れていると、商店街にこんなにひとがいる、というのが逆に不思議に思えてしまいます。人口規模が全く違うとはいえ、うらやましいです。

大手筋

中書島に移動すると、日中はほとんど使われない4番線にミュージアムトレイン。

ミュージアムトレイン

こういう展示としては珍しく、中での撮影が自由だったので、いろいろ撮りました。
門真市駅前など、京阪バスが写っている写真はやはり目を引きます。

門真

見にくいですが、昭和10年の路線図でも、ちゃんと外畑は書かれています。この時点で、前身の会社も含めれば、開通から既に10年ほど経過していたはずです。

昭和10年 路線図

浜大津は大きく特集されていました。

浜大津界隈

このモノクロ写真の京阪石山寺はいつごろの撮影なのでしょう。瀬田川がいやに近く、またものすごいひなびた終着駅に見えます。大津の旧市街から石山団地や南郷方面に引っ越してきたひとや嫁いできたひとが、冗談半分で「石山寺より南にひとなんて住んでいるのか?と思っていた」と地の果てのような言い方をするのを何度か聞いたことがありますが、こういう写真を見ると、あながち嘘でもなく思えます。

京阪石山寺

しかし、私が更に心を奪われたのは、京阪坂本駅前追分の、バス停が写っているところでしょうか。

京阪坂本全景  京阪坂本駅前 拡大

右の写真は、左の写真の真ん中に写っている写真の右に見えた文字を拡大して写したものです。
右から「坂本港 近江神宮前 浜大津 国鉄大津駅 のりば」と書かれています。「坂本港」がよく分かりませんが、廃止された29号経路(石山駅-湖岸道路-浜大津-比叡山坂本駅)の前身の路線はかなり昔からあったことは確かなようです。 

追分はもっとすごいと思いました。

追分全景  京阪追分 拡大

見にくいですが、「石山寺 瀬田 浜大津 方面行 のりば」と書かれています。
ポールは、いわゆる「食パン型」の昔の京阪バスのポールと違って、まるいポールで、それでいて今のバスの絵が描かれたものとも違います。他社と共用なのかな、と思うのですが、でも「京阪バス」としか書かれていません。

京津国道線がまだまだ元気いっぱいで、瀬田町行きがあったな昭和30年代から42年頃ですね。「瀬田町」行きはやっぱり京都から直通していたのですね。どこかに昭和30年代の時刻表があったと思うのですが、こないだから探したおして見つからないので、また出てきたらご紹介します。

展示の本筋ではないなと思うのですが、これだけのことでも、わざわざ中書島まで行ったかいがある、と思われてきます。
 
更新が遅れてすみません。9月というのは、年表を見て頂いても分かるように、比較的バス関係の動きは少ないんです。まあ、実のところ単に、下調べが大変で追いつかないだけというのが大きいのですが…(汗

先日、石山駅の上り待避線(貨物線)に、225系が停まっていました。新快速の車窓から、向日町の京都総合運転所に停車しているのは見たことがありますが、肉眼で直接間近に見たのは初めてでした。

225系

223系がまだ十分新しく見えるのに、登場してもう約15年経つんですね。早いものです。やっぱり225系は、側面だけみると区別が付きませんが、ピカピカに見えます。

223系との並び

シングルアームのパンタグラフは、何度見ても、特にこの図のように、開いている側が進行方向だと、折れてしまいそうな気がして仕方ありません。

シングルアーム
コラムで失礼します。

前に「秘密のケンミンshow」という番組を取り上げましたが、大阪だけは、東京から見た時に、特徴が際立っているためか、「ヒミツのOSAKA」として特別に取り上げられていますね。

大阪の親戚や友だち複数人に聞くと、「あんなのウソや、絶対ヤラセ!大げさすぎる」という意見も目立つ一方で、「いや…あのまんまやで」とあっさり言われたことも…。大阪市内かそうでないかとか、泉州と摂津とか、地域ごとの感覚の違いもあるのかもしれません。

一応同じ関西人ながら大阪府民ではない私が見ていると、だいたい感想は次のように分かれます。


1.え?何でよその地方のひとは知らんの?当たり前やんけ!
 

(或いは、それが関西独特だと意識すらしなかったような場合)

2.全国的でないのは分かるけど、これは近畿2府4県に住んどったら常識やわ 

3.まあ、分からんでもないけど、ここまでやないわ… 大阪のひとはすごいな…。 

4.これは知らん!コテコテの大阪人しか分からんやろうな
 

1は「わらびもち」がやたら好きとか、トイレットペーパーはシングルが人気とか…。関東では全体の8割がダブルだということに衝撃を受けました。
あとは、「ヒレカツ」より「ヘレカツ」という方が一般的とか、カレーに生卵とか、「大学芋」ではなくて「中華ポテト」だとか、「餃子の王将」がやたら好きとか、こういうのは私の中では2ですね。

全体的には、関東とか全くのよその地方のひとと違って、基本的な文化の土壌は同じなので、話の内容はだいたい分かるんです。ただ、近畿2府4県で唯一大阪と直接接していないだけあって、ちょっと客観的で、3や4の割合が高くなる気がします。

但し、4に分類されたものについては、少々懐疑的になる部分もありますね。

「大阪にはうまいもんがいっぱいあるんやで♪」とかいう歌、あれ、ホンマなんですか?歌詞の中にわざと食べ物じゃないものを交ぜて、最後に「なんでやねん!」とツッコミを入れるなんていうバージョンもあるらしくて、大真面目に歌う保育園児に、びっくりしてひっくり返りそうになりました。たいがいにしときぃな、と思ってしまうところは、私の個性か、京滋と大阪の空気の違いか…(笑)。ホンマならあれは…たくましくなりますわ…

準備中でも平気で店に入って行くていうのも、本当なんでしょうか?インタビューに対して、あるオバちゃんは、
「入られたくないなら、カギかけといたらええねん!」

そんな開き直られても…。
京都であんなことしたら、嫌われるどころの騒ぎやないやろうな…(爆)。ていうか、空気的にさすがに無理やろうな…。 

しかし更に、

5.いくらなんでもこれは東京をはじめ、よその地方のひとの期待と偏見の入り混じったステレオタイプな「関西人像」や

と思われるネタも…。

吉本新喜劇のギャグを下敷きにして、誰かが「お邪魔しまんにゃわ」と言われたら倒れるだの、上司がネコのまねをしたら、かわいがった後に「なんでやねん」とツッコむとか、これはいくらなんでも、東京をはじめ、よその地方の人間の幻想やろう?と思いましたね。誰があんな寒いことするねん(-.-) 
こうして、「みんながああなんや!」というステレオタイプな誤解が全国に広がる…。

………え?いや、ホンマにああいう感じやで!というコテコテの大阪の方、コメント(ツッコミ?)入れて下さい。
今年のバスまつりは神戸で盛況のうちに終わりましたが、2007(平成19)年のバスまつりは大津で開かれました。その時に京阪バスのブースで見つけたのが、枚方営業所の幕式運賃表で、すぐに購入しました。このようなものがまだ残っていたことに驚きました。8月30日の拙稿への、N-3899様のコメントにより、枚方営業所管内の合成音声化は、大津より1年早い94年だということが分かりましたので、購入時点ですでに13年以上経過したものだったということになります。

枚方の細かい事情が分からない私が1人で見ていても仕方ありませんので、本ブログで1コマずつ撮影した画像を公開させて頂こうと思います。全82コマです。ただ、ほとんど解説らしい解説ができないので、写真を載せるだけになります。

因みに、私がなじみのある大津営業所の幕式運賃表も、体裁は全く同じです。大津をはじめ、他の営業所の幕式運賃表をお持ちの方、「譲って下さい」とは申しません。1コマずつ写真に撮らせて頂けるだけで十分です。是非お知らせ下さい。

枚方幕式運賃表

写真は不要な部分をトリミングしてはりつけたような格好なので、決して美しいとは言えませんが、内容はちゃんと読んで頂けると思います。左から右に3枚、次はその下の段で左から右、という具合に続きます。
終戦の日から1カ月経ちました。

先月、「終戦記念日」の原稿を書いた直後、録画してあったNHKの「週刊こどもニュース」(8月15日放送)を見ていたら、「お父さん」(岩本裕解説委員)が、

65年前の今日がどういう日だったのか、ていうのをね、おじいちゃんやおばあちゃんに直接聞いてみて、そしたらね、やっぱりね、こうだったんだよ、ああだったんだよと、一生懸命話してくれると思うんですよ

と話していました。もちろん、別に悪いことでも間違ったことでもないんですが、ただ、今の小学生の祖父母というと、60歳代でも全然おかしくなくて、ほとんど何も語れない、という可能性も十分あるだろうな、と思うのです。

しかし、すぐれた歌や物語は、時に生の体験と同じくらいの迫力で、ひとの心に迫ります。

私は時々、「お母さんの木」の歌を思い出します。
7人いる息子が出征する度に、「どうせなら柿や栗のように実が食べられる木にしたらいいのに」と周囲から言われながら、桐の木を1本ずつ植え、息子が無事に帰ってくることを祈る「おかあさん」を描いた、大川悦生作の物語です。これを、某年の滋賀大附属小学校児童が作詞、中井憲照・滋賀大音楽科教授が作曲した8曲でひとまとまりの合唱曲があり、小学校の頃、歌ったのです。
こういう、物語を歌にしたような「大作」の合唱にありがちな、仰々しさや、シュールさ、そういったものがなく、自然と心に沁み入ります。

ところが、小学校の時に使っていたざら半紙(最近、ざら半紙なんて聞かないし、見ないですね)の楽譜が、どうしても見つからなくて困っていたのです。
そんな折、音楽教室をされているkuboty様のブログじいくれふの部屋を見つけ、楽譜を頒布されていることを知りました。
早速問い合わせたところ、快く楽譜を分けて下さいました。歌の部分だけでなく、小学校の時はもらえなかったピアノ伴奏も入っていたので、1曲目の前奏を弾くと、あの頃の音そのままで、記憶がまざまざとよみがえりました。途中のセリフも記憶通りです。

秋がすぎて 戦争に負けた年の 寒い冬だった。
お母さんは すっかり弱ってしもうて
腰もまがり よぼよぼになってしもうた。
それでも ポツリ ポツリ 生き残った兵隊が帰ってくると
お母さんは もう 待ち切れんようになってしもうて
汽車がくるたんびに 雪の線路ばたに 出ていなさった。



この後、誰もが、そうあって欲しくないと願うような悲しい結末を迎えます。だからこそ、もうこんなことがあってはならない、と読者に強く感じさせる効果があるのでしょう。

しかし、その一方で、人間は、愚かで、残酷で、複雑な生き物です。
三橋敏雄という俳人は、広島の原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」ということばを下敷きにしたと思われる、

あやまちは くりかへします 秋の暮

という句を作って、世に衝撃を与えましたが、いい悪いはともかく、ある意味ゾッとするような、目を背けたい、人間の本質を言い当てているような気もするのです。

終戦の年の今日、9月15日、当時の文部省は、現在の教育基本法の礎となる、「新日本建設ノ教育ノ方針」を発表します。戦後日本の教育も、戦前とはまた違った様々な問題があって、一概によかったと言えるのかどうか分からないと思っていますが、少なくとも今のところ、三橋敏雄の予想に反して、核戦争のような大それた過ちは繰り返しておらず、その点では、教育はうまくいっているのかもしれません。繰り返さずに済むようにするのもまた、人間性なのかもしれません。

しかし最近、「お母さんの木」のような戦争文学の影が薄くなり、有名な「ちいちゃんのかげおくり」(あまんきみこ)も教科書から消えると聞いております。戦争文学が、どれほど「繰り返さない」力になっているのかは分かりませんが、生で戦争の体験を語れるひとが少なくなる一方で、すぐれた歌や物語すら取り上げられなくなると、いったいこの次どうなるのだろうか、と案じられます。そもそも、現時点で世界中全てが平和で、豊かで、という状況ではないというのに。

私なんかが「お母さんの木」をブログで取り上げたから、どうなるというものでもないと思いますが、芸術的にも優れた作品だと思うので、少しでも知って頂けたらと思って、いつもと雰囲気が違って申し訳ないですが、書かせて頂きました。

お母さんの木



お母さん お母さん やつれはてた その手
お母さん お母さん 長くつらい日々でした(第8曲より)
1958(昭和33)年9月13日、52年前の今日、「大津銀閣寺線」(大津駅-田ノ谷峠-山中町-銀閣寺道)が運行を開始します。社史の年表でも、9月、というだけで日付が抜けていましたが、9月12日付読売新聞、9月14日付京都新聞のそれぞれ滋賀版で、13日の開通でほぼ間違いないことが分かりました。

記事の内容からすると、京都から比叡山に登ろうとするとき、途中にある集落、大津市山中町の住民の要望のようです。この集落と、山中越という道は大変に古い歴史を持っていて、数々の和歌にも読まれている面白いところなのですが、今日それを取り上げるとわけが分からなくなるので、また機会があった時にします。

下の新聞記事をご覧頂くと分かる通り、朝、大津駅を出発して、夕方、元来た道を戻るという格好です。朝使ったバスが、銀閣寺道で昼間ずっと待っているとは考えにくいので、同じバスを使うのでなく、行きは大津、帰りは京都のバスを使い、京津国道線などを介して車両のやりくりをしていたのかな、と思います。

たった1往復でも、一応「通勤バス」なんですね。毎日同じ時間に行って、帰ってくるひとでないと使えませんね。

銀閣寺道なんて、中途半端なように見えますが、市電があった時は、それなりにターミナルだったようです。

S33.9.14京・滋  S33.9.12読

(左)S33.9.14京都新聞滋賀版 (右)S33.9.12読売新聞滋賀版
  
前に取り上げた藤尾の住民は、地形的に山科と一体になっていても、大津市内に行きやすいように、大津方面のバスを出して欲しい、と要望したわけですが、こちらは逆に、とにかく京都方面に行きやすいようにしてほしいということだったのかと推測されます。
集落の外れからほんの少し行けばもう京都市に入ってしまいますし、今も、山中町の子どもは大津市立比叡平小学校を卒業すると、京都市立近衛中学校に通うという特例があるくらい、京都との結びつきが強いので、こうなったのでしょうか。

京都比叡山線も、同じ年の4月、比叡山ドライブウェイの開通に伴って、既に運行を開始していて、多分バス停は設置されたでしょうけれども、朝夕の通勤通学時間帯に乗りやすいバスは恐らくなく、しかも季節波動があり、山中町の一般の住民には必ずしも使いやすいものではなかったのでしょう。

ところで、現在、朝に片道だけ運転されている、56A号経路・山中町発銀閣寺道行は、今は56号・56A号経路 京都比叡平線の区間運転便のように見えますが、実は赤の他人で、本当はこの大津銀閣寺線の末裔なのだろうと思います。

「京都の都市交通懇話会」監修の『京都公共交通時刻表』(ユニプラン 1981)によると山中町-銀閣寺道間の「銀閣寺線」というのが平日5往復、冬季6往復していたことが分かります。その中の1回が、何と現在の山中町発銀閣寺道行きと全く同じダイヤです。(山中町7:40発)

「銀閣寺線」が昭和33年から56年まで何らかの形で走り続けていたかどうか、という部分は詳らかではありません。しかし、少なくとも京都比叡平線も大津比叡平線もまだチャーター便であった1981(昭和56)年の段階で、「銀閣寺線」という名前の路線が走っている、ということは、路線としての歴史は、実は区間運転のように見える山中町発銀閣寺道行きの方が古く、ルーツをたどるとするなら、大津銀閣寺線だろうということになると思います。

京都比叡平線ができた時に、「銀閣寺線」がなくなってもおかしくなかったのに、なぜか生き残っているというのが不思議です。
そして、今でも運転が大変な道なのに、50年以上前なんて、どんなバスが、どんな道を走っていたのだろう?と思います。


山中町  山中町 B-1235

山中町の古い街並みに入ってくるB-1235(左)と、山中町のバス停で束の間の発車待ちをするB-1235。山中町に入ってくる前は、山中上のバス停で京都方向に頭を向けて発車待ちしていたので、西大津バイパス経由で回送されてきたのかな、と思います。

昨日に続き、ボンネットバスの話題。

今回公開させて頂くのは、大津市南郷と大石を結ぶ、鹿跳橋(ししとびばし)で、橋の下は、「鹿跳峡の甌穴(米かし岩)」と呼ばれる、瀬田川の景勝地です。ボンネットバスの写真は、昨日に引き続き、Railbus様の撮影です。

Railbus様は、橋の西詰正面の崖を登り、今の案内標識が掲げられている辺り(下の2010年9月11日撮影の写真参照)に立って大石方面を望んで撮影されたようですが、現在はがけがコンクリートで固められている上、左右の端が落石防止のフェンスでがっちり覆われていて、ひとが入ることは不可能、したがって、残念ですがこのようなアングルで写真を撮ることはもはやかないません。私は地面に普通に立って撮りました。

1133   鹿跳橋 
1976(昭和51)年7月3日撮影   2010(平成22)年9月5日撮影

鹿跳橋西詰 2010(平成22)年9月11日撮影

 
ボンネットバスは「滋2 い 887」(社番1133) 昨日ご紹介した、1975(昭和50)年9月11日の朝日新聞に登場するバスと同じバスです。
現在の鹿跳橋は昭和39年竣工ですので、橋自体は今も当時も同じものですが、歩行者用の橋はありませんね。背景の家の数の違いには目を見張ります。

1976(昭和51)年9月21日付滋賀日日新聞は、「姿消す“市民の足”」と題して、京阪バス最後のボンネットバスの、間もなくの廃車を伝えています。

消え去りゆく者への郷愁からか、同営業所(引用者注:大津)にもカメラを手にしたマニアが訪れ、角度を変え、熱心に写真に収めるひともある


この当時も、そういうひとがいたんですね。

更に興味深かったのは、

ことしの七月までその“健脚”ぶりを発揮していたが、老朽化のため現役から引退。その後は、運転手の乗り継ぎ車として使用され(後略)


という部分。Railbus様が撮影された姿は、一般運用としては本当に最晩年の姿だったということがこの記事から分かるのです。

Railbus様はじめ何人かの方から、昨日ご紹介した曽束京阪バスで最後までツーマン運転が残っていた路線であるとお聞きしております。ここが同年10月1日からワンマン化されたことで、京阪バスの完全ワンマン化が達成されたのだそうです。曽束は、構造上ワンマン運転ができないボンネットバスの、最後の活躍の場だったのだろうと思われます。鹿跳橋を渡るこのバスも、大石小学校始発ではなく、曽束始発で、大石小学校を経てこれから約10キロの道のりを石山駅に向かうのかな、と思います。

因みに、系列の江若交通ではこの後まだ5、6年ボンネットバスが使われ続けます。これについては機会がありましたら、別途取り上げたいと思います。

なお、昨日の写真も含め、全てRailbus様がご厚意で公開を認めて下さった写真ですので、営利目的その他不正な使用がないよう、くれぐれもご注意願います。
末筆ですが、改めまして、Railbus様、ありがとうございました。
更新が遅くなり、すみません。あれほど暑くてたまらなかったのに、さすがに最近は、朝方、窓を開けていられないくらい寒いのですが、皆さんのお住まいはいかがでしょうか?季節の変わり目は風邪をひきやすいので、ご注意下さい。

さて、35年前の今日、1975(昭和50)年9月11日付の朝日新聞滋賀版に、京阪バス「滋2 い 887」のいすずBXD30型ボンネットバスの写真とともに、「ボンネット式バス第一線退く」という記事が掲載されました。
昭和40年式で、当時で10年ほど経っています。今の大津の京阪バスで言えば、A-3798、S-1074等が10年目に当たり、第一線を退くどころか、一番「脂がのっている」中堅どころしょう。記事では、5、6年で廃車になるバスが多いように書かれていますが、実際には当時も10年くらいが寿命というケースが多かったようです。ただそれでも、15年以上走り続けるのが普通の、今のバスの10年目と比べると「古い」という感じだったのかなと思います。

この記事は、バスが一人称で自分を語るというスタイルをとっています。

ボクがまだピカピカだったころは、大津市内に広い道が少なくて、小回りのきく同じ型のバスが何台もいた。そのうち湖岸道路なんかができて、ボクらの出番はだんだん狭められていった


湖岸道路の全通は1966(昭和41)年なのですが、それまでは、今の国道経由に呼応するのは、膳所の旧東海道経由でした。今となっては到底信じられませんが、膳所の旧城下町の狭い道をバスが通りぬけていたのです。

この当時既に、「彼」は、乗務員輸送などの裏方役が中心となっていて、

時々、ピンチランナーとして、石山から瀬田川沿いの路線を走ることもある

程度だったようです。

しかし、ピンチランナーになってしまってから後に、一般路線の営業運用に就く貴重な姿を、Railbus様が写真に撮っていらっしゃり、本ブログでの公開を認めて下さいました。本当にありがとうございます。

1132-2  1132 
1976(昭和51)年6月27日撮影



上の2枚の写真は、いずれも曽束(そつか)(大津市大石曽束5丁目地先)で折り返しの発車待ちをする「滋2 い 886」(社番1132)のいすずBXD30で、何とバスコレクションのモデルとなった車両です。

当時の撮影地の現在の様子を撮影しようとしたのですが、34年の歳月は重く、場所を探すのに意外に苦労しました。今の「曽束」のバス停の様子を見ても、あまりにかみ合わないため、首をかしげざるを得ず、Railbus様の証言や、現地の観察の結果、どうやら今の「曽束中(そつかなか)」のバス停(曽束の1つ大石小学校寄り)が、「曽束」終点だったらしいと推測されました。ただ、今の曽束中のバス停は、Railbus様撮影の写真なら、もっと右に首を振らなければならないので、バスの停車している位置は、恐らく現在で言うと、曽束緑地駐車場に下りる坂の入口あたりではないかな、と思われます。

曽束中3  曽束中1 
左2010(平成22)年9月11日撮影、右 同年9月5日筆者撮影


右の写真の背景に写る送電線がないのが気になりますが、はりかえられたのかもしれませんし、左の写真の左端にチラッと写る橋の欄干らしきもの、山の稜線、右の写真の背景の特徴的な4本の木、右に写る橋の欄干、家の屋根の雰囲気など、ぴたりと来るのはここだけでした。

現在、Railbus様撮影の写真と全く同じようにバスが停車することはほぼあり得ず、特に側面については撮影が非常に困難なため、バスなしの現状でご勘弁下さい。斜めもぴったり同じではありません。車両は、交野から転属してまだ1カ月ほどのS-1066で、最近の転属車の多くがそうであるように、緑の経過措置対象車ステッカーが貼られたままでした。

※なお、曽束にお住まいの方やご出身の方で、現在の曽束バス停までバス路線が延長された時期をご存知の方、或いは、私の推測が間違っているのではないか、という方、その他、曽束のバス路線について、何か想い出や情報をお持ちの方など、いらっしゃいましたら、コメントやメールでは本名を明かして頂く必要はありませんので、お気軽にご連絡下さい。

Railbus様からはもう1枚写真をご提供頂いたのですが、長くなりましたので、また明日公開させて頂きます。