青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
N-3899様、昨日はコメントありがとうございました。大阪はやっぱり早かったんですね。何事も真っ先に導入、という印象が強い高槻の方が大阪の他の営業所より後だったというのは意外でした。

せっかく整理券番号のチャイムのことを書いて下さったので、私も今回は、その思い出から書かせて頂こうかと思います。

>整理券番号が変わるときのチャイムですが、これは営業所によってマチマチです。
枚方・高槻・寝屋川営業所管内ではチャイムが鳴ります。

そうですね。私も廃止直前の樟葉中書島線に乗った時(=初めて大阪の京阪バスに乗った時)に驚きました。滋賀から大阪まで、何事もよく統一が図られている京阪バスにあって、これは意外でした。
ところが、テープ時代の大津とピッチが違うのがすごく残念だったんです。大阪の京阪バスのそれは、始発の時の外用アナウンスの「長らくお待たせいたしました」の前に入るチャイムと同じなんです。

樟葉中書島線一口(いもあらい)北口にて


言及されている男山のことはよく分かりませんが、宇治交は基本的にチャイムがありましたから、それを継承しているのかもしれませんね。

前回も引用した、清水誠治の「路線バスの案内放送のことば」では、チャイムやBGMについて、

「チャイムは、乗客にこれから案内放送が始まることを意識させるための、『皆様』『ご案内致します』といった言語に代わるメタ表現」

としています。「皆様」や「ご案内致します」は、どうもツーマンの時には結構よくあった表現で、それに代わるものがチャイムだ、ということのようです。また、

「運賃表示器の運賃画面が切り替わる停留所の案内時にのみ入れているところもあった」

と書かれているので、一見すると、京阪バスはこれなのかな?と思ってしまいそうですが、そうではありませんね。運賃画面が切り替わっても、チャイムは鳴るとは限りませんし、その逆もしかりです。

これは乗客への注意喚起ではなく、多分、整理券発行器が自動化される前、運転手への合図の意味で鳴っていたものの名残なのでしょう。小さい時は何の意味があるのか分からず、南郷・大石方面の「石山小学校前」では鳴るのに、石山駅方面では鳴らないのが何でなのかな、と思っていたのですが、やがて法則性に気付きました。
清水は、全国のバス事業者へのアンケートを基にこの論文を書いているのですが、こうした乗務員への合図については何も言及していませんので、全国的には珍しいケースなのかもしれません。

9号経路(後の4A号経路)(石山駅~大石小学校前~寿長生の郷)のように、対キロ区間制の区間にまたがるような路線だと、「唐橋前」「石山寺山門前」「滋賀大前」など、普通はチャイムが鳴らないところでも鳴りっぱなしだったことも思い出します。


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今月は、大津管内の京阪バスのアナウンスが、今のように合成音声化され、運賃表がデジタル式になって15周年でした。学生時代の夏休みの間だったので、印象がかなりはっきりしております。知人の話だけでしかありませんが、大阪はもっと早かったようですね。

バスが来て、ドアが開き、

コノバスハ 京阪石山寺 経由 石山駅 ヘ参リマス

という、途切れ途切れ(に聞こえた)のことばが流れた時、特に興味がないひとでも、少なからず「ハァ?」と思ったことだろうと思います。

乗れば乗ったで、運賃表がデジタルになっていて、やっぱり、

次ハ 滋賀大西門 滋賀大西門 デス

といった調子ですから面喰います。
わざわざカタカナで書きましたが、本当に逆にカタカナを音声にしたら、こういう感じか、と思うくらい、機械的に聞こえました。

2000年9月の『日本語学』という雑誌で、清水誠治は、「路線バスの案内放送のことば」と題して、合成音声について「聴く側の不満」として、
「原稿に共通する単位の切り方が悪いと、合成された放送分が不自然に聞こえることになる。バスの例だと、自然な談話の中では本来独立して発音されることのない『です』『でございます』を別録しているのを聞くことがある」
「データ間に入力されるポーズの長さが不自然なものがある」

と書いています。
 一方、作るのも最初は大変なんですね。
「通常の放送原稿を全てパソコンに入力し、全放送内容から共通する部分を取り出し、それを一回ずつ録音していく。そして、録音されたデータを、通常の放送原稿に見合った形に組み替えていくそうである」

つまり、「石山駅へ参ります」の「石山駅」も、「次は石山駅」の「石山駅」も同じものなわけですね。それどころか、「へ参ります」「次は」は基本的に京阪バスならどこでも共通ということです。

…そう考えると、話が脱線しますが、石山の「松原」と高槻の「松原」や、廃止になった大津の「西唐崎」と、今もある高槻の「西唐崎」は同じパーツを使っているのか気になります。

「松原」くらいならともかく、「西唐崎」などというバス停名が、同じ会社の遠く隔たった別の営業所管内に存在していたというのが不思議な偶然ですね。

合成音声・運賃表は、一気に全ての車両について更新されたのではなく、順次進行でした。しかし、9月に入るころにはもう全て置き換わっていたと思います。

これによってなくなった特に印象的なものが、
①整理券番号が切り替わる時のチャイム
②「大津市民憲章」のアナウンス
③終点で流れる物悲しい謎の?音楽
④幕式運賃表

です。これらについては、また今度書かせて頂きます。
1995(平成7)年8月27日、ちょうど15年前、大津比叡山線が1958(昭和33)年4月からの37年の歴史に幕を下ろしました。1966(昭和41)年の奥比叡ドライブウェー開通に伴って、大津駅-堅田駅を比叡山経由で縦走する形をとるようになってから数えると30年足らずの寿命でした。末期は大津駅-四明嶽(比叡山頂)の運行だったようです。

当時インターネットも普及していませんので、ほとんど何も知らないまま、あとで気付いたという感じだったように思います。デジタルカメラもありませんし、そもそもバスを「撮る」という発想もありませんでした。

運賃は高いですが、いくらでも乗る機会はあったのに結局乗らずじまいで、写真から運賃表から、ほとんど何一つ手元にありません。ネットで検索してもほとんど何も出てこないので、もう忘れ去られてしまっているのでしょう。

1993(平成5)年6月の大津営業所移転時に、ターボエンジンの車両は全て山科営業所に行ったはずなので、末期の2年間だけは、大津比叡山線も山科管轄だったのでしょうか?それすらよく分かりません。

私が子どもの頃は、大津比叡山線・大津比叡平線が大津管轄だったため、たまに石山、南郷方面にもそれ用の豪華な車両が来ることがありました。全席2人掛け、補助席付き、つり革なし、運賃表は幕式ですが、長距離でたくさんの整理券を発行するため、特別に細かく仕切られていました。運転席の操作盤も、普通と違ってダイヤルが二重になっていました。

当時はシートの色がワインレッドやオレンジで、特にオレンジのシートは背もたれが高く、分厚く、今の「Bタイプ」よりずっと特別な雰囲気がありました。印象に残っている方も多いのではないでしょうか?朝夕のラッシュ時は通路が狭くて乗降に不便なのですが、それでも一般の路線でこれに当たると、幼心に「当たり!」気分だったのを覚えています。

乗った時は、普通の路線用の車両には掲示されていない、大津駅から堅田駅までの大きな三角運賃表を食い入るように見つめたものでした。インターネットがあれば簡単に見られますが、当時は車内で見るしかありませんでした。

今、私の手元にある、大津比叡山線の存在を物語る比較的新しい資料は、路線図数枚だけです。いずれも、以前古写真の提供でお世話になった、るうパパ様から頂いたものです。

雄琴駅1

雄琴駅2

上の2枚は、湖西線雄琴駅(現おごと温泉駅)のバス停に掲示されていた路線図で、大変大きい変形サイズだったため、上と下とで分けております。バス停名の横に書かれている数字は、雄琴駅からの運賃です。

1985.3.1現在 大津管内路線図

この路線図は、ベーシックで重要な資料ですので、別のところでも出させて頂くかもしれませんが、1985(昭和60)年3月1日現在の大津管内の路線図です。
昨日の続きで、藤尾について書きます。
1980(昭和55)年2月1日の京都新聞市民版によると、

複雑に入り組む市境界線越しに通学路、交通問題でトラブルが多く、京都市側に反発していた藤尾地区が「地元のメリットが少ない」としてバス運行に難色を示し、足踏み状態が続いていた。

何と具体化してから2年経っているのに、まだバスは走っていなかったんですね。こういう境界線が複雑な地域は、どうしても、ごみ収集や通学路、水道、ガスの配管のことなど、いろいろ問題が起きてしまうようで、バスもそれらの問題の一つとなってしまったようです。
恐らく中学生の通学や、市役所への利便の都合だと思いますが、大津市である藤尾地区としては、浜大津経由の西大津駅行き新設が、山科方面への路線が走る条件だったようです。西大津バイパスの開通は1981(昭和56)年ですから、大津方面へは、大谷を通るのが普通だったのでしょう。

これらの問題を乗り越え、1980(昭和55)年5月11日、すったもんだの末、藤尾・小金塚線が開通しました。開通式の様子を伝える翌日の朝日新聞滋賀版の見出しは「待望のバス7年ぶり発車」とありますから、私が発見した1975年の新聞記事より更に前から、要望はあったのだということになります。生まれた子どもが小学校に入るくらいの年数がかかってしまったんですね。いやぁ、バスを走らせるというのも、大変な事です!

以前掲示板でお世話になったT.F.様から、その当時の車内、またはバス停に掲示されていたものと思われる資料コピーをご提供頂きました。大変貴重なものです。T.F.様より、ネット上での公開の許可を頂きましたので、以下に掲示させて頂きます。もともとはB4サイズでした。

藤尾開通1   藤尾開通2

路線の走り方は、だいたい昨日引用した1978年の新聞記事通りです。大津方面も、藤尾地区住民の要望通り、40号経路として運行されています。
この40号経路は、1982年版の「京阪時刻表」の浜大津のページに記載されていて、いったい何者だろう?とずっと思っていたのですが、この資料で、謎が解けました。問合せ先として、大津営業所の電話番号も記載されていることから、この40号経路は、大津管轄だったのでしょう。
1984年の「京阪時刻表」には、もう40号経路の記載がないため、82-84年の間に廃止され、代わりに西大津バイパス線ができたのだと思われます。しかし、あらゆる問題を乗り越え、最後にめでたく賑々しく開通した藤尾・小金塚系統と違い、西大津バイパス線は、開通時期など詳細はほとんど全く不明です。
藤尾・小金塚といえば、京阪バスに詳しい方なら大阪方面の方でも、恐らくだいたい通じる有名な終点で、最近は、京都橘大学とともに、「ノンステップバス走行禁止区間」としても知られています。
しかし、現在のバス路線が全て山科営業所管轄で、地形的にも山科と一体になっているため、ここが大津市だということを意識されている方は少ないかもしれません。

私たち普通の大津市民も、在住歴が短いほど、藤尾からの距離が遠い地域であるほど、京都東インターチェンジの北に広がる街並みを、大津市だとは思わないことでしょう。

しかしその一方で、更にその北の斜面に見える団地のかなりの部分は京都市です。

藤尾・小金塚の町並み
藤尾・小金塚バス停と小金塚団地

このように、境界線が複雑なため、バスの乗り入れには意外に困難があったようです。

新聞で初めてこの問題が取り上げられるのは、1975(昭和50)年10月18日の京都新聞です。

[すったもんだの藤尾・小金塚 京阪バス路線開通①]の続きを読む
びわこホテルのバス停の位置について、滋賀県立図書館や大津市立図書館に所蔵されている「琵琶湖ホテル五十年のあゆみ」(1984)で確認したところ、バスがあった当時は玄関の向かって右に更に別館が2棟あり、バス停はその別館の前にあることが分かりました。遠景の写真ですが、発車待ちする京阪バスの姿も見えます。同書の中にある図でも分かります(下図)。今だと、多分、敷地の外になってしまい、隣の「滋賀県琵琶湖環境科学研究センター」の前辺りだろうと思われます。

琵琶湖ホテル平面図

因みに、この本にもちゃんと、1967(昭和42)年8月18日、京阪バスが乗り入れを開始した旨が記載されています。


びわこホテル
びわこホテルに行ったことのないはずの転属車ですが、幕は入っていました。おととし、幕回しの最中に石山駅で撮影です。

最近、京都では、森下仁丹の町名表示琺瑯(ほうろう)看板がちょっとした話題になっています。一昨日、8月20日付の朝日新聞「青鉛筆」で、新たに京都に25枚の琺瑯看板を設置する動きがあると書かれています。書き手も募るのだとか。全国にあるそうなのですが、戦災や開発の影響が比較的少なかった京都には特によく残っているようです。

藤尾奥町に行ったら、大津市なんですが、思いがけずそこにも設置されていました。藤尾川を中心に開けた古い街並みによく溶け込んでいました。

s-IMG_1461 2   s-IMG_1473.jpg

西大津バイパス線の京阪バスに乗っていると必ず通るところで、高速道路のように、一旦本線から分かれて入るバス停が印象的です。しかし、その立地条件は、バスの車窓から見ていても、随分厳しく見えます。一度バスの外から様子を見たいと思っていたのですが、案の定、集落から上がるのは結構大変でした。大津京駅方面は、上の二枚目の写真の方向に歩いていくのですが、高いところを走るバイパスの方まで上がっていかないといけません。

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坂を登ると、やっとバス停が見えてきます。工事中なので、余計にすごいところにあるように見えます。

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着きました。
s-IMG_1467 2


しかし、山科駅方面はもっと大変で、先ほどと逆に一旦集落の下の方、小金塚寄りに下りて、このバイパスのガードをくぐり、左に大きく曲がっている坂道を登らなければなりません。


岩間寺の坂を思い出す急カーブ。暑い…。秋になってから来ればよかった…。

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標識の向こうにやっとバス停が見えてきました。



疲れた(*_*)

s-IMG_1481.jpg

草ぼうぼうに見え、マムシでも出やしないかとハラハラしますが、バス停が立っている位置はそうでもありませんでした。

s-IMG_1482.jpg

「秘境バス停」とまでは言えないかもしれませんが、ほとんど高速バスのバス停のような感じで、毎日乗ろうと思うと、結構大変ですね。現行の京阪バス一般路線に、こういう形の停留所は珍しいでしょうね。
昭和30年代の年末年始の新聞を見ていると、たいてい、各社寺や交通機関の初詣の案内がびっしりと書かれています。
1963(昭和38)年12月31日のサンケイ新聞滋賀版は次のように報じています。

「京阪バスは、日赤病院-浜大津-瀬田間を建部神社境内まで延長する」

その2日前、29日の京都新聞滋賀版では、

「京阪バス=各線とも昼間ダイヤに力を入れ、特に瀬田線は建部神社の鳥居前まで乗り入れる」

翌年1964(昭和39)年12月29日の滋賀日日新聞では、建部大社について、

「初参り循環の京阪バスが二の鳥居まで乗り入れる」

恥ずかしながら、近江国一宮である建部大社に行ったことがなかったので、取材がてら出かけました。

8月15日付の拙稿で書かせて頂いた近江・帝産の神領建部大社バス停から西に100m行くか行かないかで、一の鳥居が見えてきます。

建部大社一の鳥居    建部大社一の鳥居2


行ったのが18日の船幸祭(せんこうさい)の直前で、境内は静まり返っていましたが、たくさんの提灯が準備されていました。それを過ぎると…。滋賀日日新聞に書かれていた二の鳥居です。

建部大社二の鳥居

現在、その左右が駐車場となっています。特に左側、つまり一の鳥居寄りの駐車場の方が広くて、バスが来たとしても十分対応できるので、文字通り「二の鳥居まで」というよりは、この駐車場まで来てターンしていたのではないかと思います。
15日に載せた略図を再掲しますが、赤い字でPと書いた駐車場がこれに当たります。

「瀬田町」現地調査にかかわる略図

建部大社駐車場

アングルがいまいちですが、左奥の方にかなりの広がりがあります。

仮に今の近江の「神領建部大社前」、帝産の「建部大社」が京阪バスの瀬田町だったとしたらですが、バス停1区間分(400-500m)くらいの距離は十分にあると思います。ただ、参拝客の人込みをかき分けるようにして、こんなところを安全に通行できるのかな、という不安は感じますが。

建部大社二の鳥居側から一の鳥居を臨む

この写真は、逆に二の鳥居付近から、一の鳥居、橋本方面を臨んだ図です。ターンしていた場所については、私が推測した駐車場だと断言することはできませんが、この道を、少なくとも昭和39年、40年の正月に京阪バスが走ったことはほぼ間違いありません。みなさんは、ここを、紅白に塗り分けられたあの車体が通り過ぎることを、イメージできますか?


43年前の一昨日、1967(昭和42)年8月18日 京阪バス「びわこホテル」行きが誕生しました。

琵琶湖ホテルが現在の浜大津に移転(1998年)する前、柳ヶ崎にあった時は、時期により多少変動がありますが、遠く、四条大宮や大石小学校・石山団地からも、ごく普通にみられた行き先で、記憶されている方も多いと思います。同じ京阪系の会社という条件も良かったのか、後には旧西大津駅にも負けない、市北部のちょっとした操車場のようになっていたようです。

これは「京阪バス50年史」の記述と、滋賀日日新聞の記事がぴったり一致…と思ったら、滋賀日日新聞は8月16日付なのに、石山駅行きのバスの前で京阪バスの専務とびわ湖ホテルの専務がテープカットをする様子を撮った写真が…。2日後の開通式の写真がなぜ撮れるのか?と思って調べ直したら、なんと、開通を伝える記事を含む紙面の日付だけが、「8月16日」と誤植されていて、実際は開通翌日の8月19日付だったのです。
そんなことあるかよ?と思われる方は是非滋賀県立図書館や、大津市立図書館でご確認下さい。私が知る限り、こうしたケースはこの一件だけですが、こんなこともあるので調査は油断なりません。

記事に写っているバスは「2 国鉄石山駅」の表示を出しています。社史の年表によれば、京阪バスで経路番号が誕生したのは1974(昭和49)年の香里団地支所が最初のはずなのです。その7年も前なのに、この「2」は何なのでしょう?他の昭和49年以前の新聞記事でも、1号線、2号線と書かれていることがあるので、また別途取り上げます。

旧琵琶湖ホテルは、現在、昭和9年に建てられた当時の建物を復元して、「びわ湖大津館」として生まれ変わっています。

びわこ大津館 

バスが乗り入れていた時期を見たことがなく、手元にバスが乗り入れていた時の資料が見当たらないのですが、確か、建物の向かって右側がバス停だったと思います。


 びわこ大津館玄関前

玄関前を確かめても、もはやバス停のポールや、乗場があった痕跡はまったくなく、石畳が続くばかり…。びわ湖大津館ができるときに、この辺りもすべて改修されたのでしょうか?

しかし、近所の同じような石畳の中、興味深いものを見つけました。

二本松住宅前西行

びわこホテルから見て西に3つ目、近江神宮前の1つ東にあった、「二本松住宅前」の西行きのバス停の跡。
この「二本松住宅前」と「二本松」のバス停については、西行、東行それぞれ計4カ所、同様の痕跡がありました。

埋め込むため、廃線や移転があっても痕跡が残ることが多いという阪急バスに比べ、京阪バスは意外にこういう跡が少ないのではないかと思います。

 大津管内の京阪バス路線の歴史を扱うのがメインですが、より一般的に、バスが登場する小説や歌の中で、特に私の印象に残ったものも取り上げてみたいと思います。
 このシリーズ(と言えるほど続くか分かりませんが)の第1回目の今回は、川端康成です。『伊豆の踊子』や『雪国』が有名な川端ですが、私は122編の掌編小説を集めた『掌の小説』が好きです。その中でも比較的有名なのが、「有難う」です。タイトルの温かさに反して、母親が、15里離れた町へ娘を売りに行く、というとんでもないシチュエーションです。
「駄菓子を並べた待合所の二階から、紫の襟の黄色い服を着た運転手が下りて来る。表には大型の赤い定期乗合自動車が紫の旗を立てている」 
初出がいつなのかよく分かりませんでしたが、上原謙主演で映画化されたのが1936(昭和11)年ですから、それよりは前ですし、身売り、定期乗合自動車、といったことばでそのくらいの年代であることは想像に難くありません。車両は、もちろん、ボンネットバスでしょうね。「紫の襟の黄色い服」というのがどうしてもイメージできないのですが…。
 15里というと約60キロ、今は高速バス以外にそれほどの距離を走る路線はほとんどありませんが、この当時はそれほど珍しいことではなかったのでしょう。その長い道のりで、彼は馬車や大八車、人力車と行き違う度、「ありがとう」「ありがとう」と声を掛けるので、地元では「一番評判のいい運転手」とされていて、母親も、
「有難うさんに連れて行ってもらうんなら、この子もいい運にめぐり合えるじゃろ」
と言っています。娘を売るくせに、いい運にめぐり合えるなんて、よくもそんなことを言えたものだと呆れるのですが、町に着いてから、
「この子がお前さんを好きじゃとよ(中略)どうせ明日から見も知らない人様の慰み物になるんじゃもの」
と言って、彼に、娘と一夜を過ごしてやって欲しいと頼むのは、文庫のカバーの後ろに付されているこの小説の紹介文にもある通り、せめてもの母親としての情けだったのでしょうか。翌朝、結局、娘に泣かれ、運転手に叱られた母親は、娘を連れて帰ることになります。それでも春にはまた売るみたいなことを言ってはいますが…。

 ひとは、バスに乗る時、必ずしも楽しい気持ちや、うれしい気持ちで乗っているとは限りません。
 この小説の母親と娘のように何とも書きようのない複雑な思いを抱えながら乗っているひとは、今でもきっといることでしょう。ここまで複雑でなくても、「仕事行くの嫌だな」「今日は病院で嫌な検査を受けないといけない…」「彼女(彼)が最近冷たい」くらいは思っていておかしくないと思います。
 通常、運転手が乗客の人生に関われるのは、その乗客が乗っている間の数十分、夜行など長い路線でも数時間であり、この小説のように踏み込んで関わることはまれでしょう。でも、「ありがとう」という彼のさりげないことばが、次の局面を切り拓く力を持つ象徴的なことばとして扱われているような気がしてなりません。

 この運転手のことばが直接話法で出てくるのは、繰り返される「ありがとう」の他は、乗合自動車に乗る前に、
「お婆さん、一番前へ乗んなさいよ。前ほど揺れないんだ。道が遠いからね」
ということばだけです。寡黙な彼が、何と言って母親を説いたのか、それは分かりませんが、こういう彼にしか言えない何かを言ったのだろうな、と想像して、少し穏やかな気持ちになれたなら、それだけで、この小説を読んだ意味は十分あるのだろうなと思います。

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