青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
1960(昭和35)年4月5日付産経新聞↓

S35.4.5Sa 神領団地 京阪・近江路線競争b

「近鉄バス、京阪バスの住宅地乗り入れ陳情合戦が始まった」とあります。

↓現在の周辺地図

[京阪VS近江 「神領団地」路線獲得競争]の続きを読む
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昭和30年代の年末年始の新聞を見ていると、たいてい、各社寺や交通機関の初詣の案内がびっしりと書かれています。
1963(昭和38)年12月31日のサンケイ新聞滋賀版は次のように報じています。

「京阪バスは、日赤病院-浜大津-瀬田間を建部神社境内まで延長する」

その2日前、29日の京都新聞滋賀版では、

「京阪バス=各線とも昼間ダイヤに力を入れ、特に瀬田線は建部神社の鳥居前まで乗り入れる」

翌年1964(昭和39)年12月29日の滋賀日日新聞では、建部大社について、

「初参り循環の京阪バスが二の鳥居まで乗り入れる」

恥ずかしながら、近江国一宮である建部大社に行ったことがなかったので、取材がてら出かけました。

8月15日付の拙稿で書かせて頂いた近江・帝産の神領建部大社バス停から西に100m行くか行かないかで、一の鳥居が見えてきます。

建部大社一の鳥居    建部大社一の鳥居2


行ったのが18日の船幸祭(せんこうさい)の直前で、境内は静まり返っていましたが、たくさんの提灯が準備されていました。それを過ぎると…。滋賀日日新聞に書かれていた二の鳥居です。

建部大社二の鳥居

現在、その左右が駐車場となっています。特に左側、つまり一の鳥居寄りの駐車場の方が広くて、バスが来たとしても十分対応できるので、文字通り「二の鳥居まで」というよりは、この駐車場まで来てターンしていたのではないかと思います。
15日に載せた略図を再掲しますが、赤い字でPと書いた駐車場がこれに当たります。

「瀬田町」現地調査にかかわる略図

建部大社駐車場

アングルがいまいちですが、左奥の方にかなりの広がりがあります。

仮に今の近江の「神領建部大社前」、帝産の「建部大社」が京阪バスの瀬田町だったとしたらですが、バス停1区間分(400-500m)くらいの距離は十分にあると思います。ただ、参拝客の人込みをかき分けるようにして、こんなところを安全に通行できるのかな、という不安は感じますが。

建部大社二の鳥居側から一の鳥居を臨む

この写真は、逆に二の鳥居付近から、一の鳥居、橋本方面を臨んだ図です。ターンしていた場所については、私が推測した駐車場だと断言することはできませんが、この道を、少なくとも昭和39年、40年の正月に京阪バスが走ったことはほぼ間違いありません。みなさんは、ここを、紅白に塗り分けられたあの車体が通り過ぎることを、イメージできますか?


昨日は朝から「瀬田町」バス停の現地調査に行ってきました。これからも、紙資料だけでなく、現地調査をできる限り行い、謎が完全に突き止められなくても、せめて今その場所がどうなっているのかは確かめたいと思っております。

1963(昭和38)年の「京阪神市街地図集」を見ると、瀬田は当時大津市ではないため、地図の端っこに、ことばは悪いですが、いい加減に書かれているような感じでした。
瀬田町 S38  瀬田 現在

それでも今の地図(昭文社2007年版より)と比較すると、道のつながり方から、今の近江鉄道バスの「神領建部大社前」、帝産湖南交通の「建部大社」のバス停の辺りではないかな、ということは推測されました。ここには特徴的な「三角形」があり、私は、現在の野郷原・信楽方面の両社のバス停の位置が、京阪バスの「瀬田町」で、下記の図のようにこの三角形をうまく使ってターンしていたのでは?と思ったのでした。
昭和38年の地図には、三角形はありませんが、あとで国土地理院http://www.gsi.go.jp/の「国土変遷アーカイブ」の機能で1940年代の瀬田の航空写真を見て、その時既に三角形は存在することが分かりました。

http://keihanbus.xrea.jp/up1/files/seta.pdf
「瀬田町」現地調査にかかわる略図

(なお、説明がしにくいので、数学のようで申し訳ありませんが、今後この三角形を△ABCとし、辺AB、点Cのように表します)

しかし、現地に行ってみると…

辺BCは一方通行で、C⇒Bとしか通行できない!
点B

という問題があることが分かりました。
しかし、路線が開通したのは恐らく1952年(実際には戦前にもあったようなのですが、それについては別途…)、廃止は社史によれば1969(昭和44)年のようなので、当時は一方通行でなかったかもしれません。
ただ、更に、この場所であったことを100%否定するものではないにしろ、同行の知人から私が気付かなかった大きな問題を2つ指摘されました。

1.神領交差点という、大きな交差点に近すぎる。始発・終着点として行政から認められるのか?

点A手前から (点A 神領交差点石山寄り)
点Aから (点A 神領交差点)



2.点Cから左折できなくはないが、かなりの鋭角のため、大型車には辛い?

点CからB・A(点Cからの眺め。左手が点B、右手が点A・石山方向 つまりここを使って転回していたとするなら、正面の石材屋さんの真ん前で大きく鋭角で左折していたということに…)

1については、1970(昭和45)年の地図には、現在の県道57号瀬田西インター線に相当する道が描かれていますが、私の手元の1960年代の地図にこれはなく、瀬田町行きのバスがあった時は、恐らく石山方面から見ると、草津方面と信楽方面が分かれる単純な2差路だったのだと思われますが、交通の大動脈であることには違いありません。まして、国道1号線の瀬田川大橋ができる前は、ここを通らなければ大津と草津の間すら行き来できなかったわけで、いくらマイカーが少ない時代でも、やはりこのような折り返し方は難しいかな、という気もしました。

もしかすると、回転場があったのかもしれない、と思うのですが、確かめようがありません。先述の「国土変遷アーカイブ」で1975年の建部大社付近を見ると、県道の南側に空き地のようなものが見え、今もここは駐車場や新しいアパートで、雰囲気的には回転場があったとしても不思議ではない、と思います。ただ、これより前の実際に瀬田町行きがあった時代の写真は、解像度を上げてもそういった空き地があるかどうか分かりませんでした。それに、空き地があるか分かったところで、それが回転場かどうかなど、航空写真では知る由もありません。

というわけで、今回の調査では、「瀬田町」は現在の「神領建部大社前」付近であったのではないか、と推測することしかできませんでした。すみません(汗 でも、今後も調査は続けたいと思います。
地元の方など、何かご記憶の方はお知らせ頂けると嬉しいです。

なお、1963(昭和38)年12月31日のサンケイ新聞滋賀版には、
「京阪バスは、日赤病院-浜大津-瀬田間を建部神社境内まで延長する」
と書かれておりますが、これについて今回一度に書くと長すぎるので、先の略図を使いながら、また別途書かせて頂きます。
7日に続いて、浜大津瀬田線について書かせて頂きます。
「京阪バス五十年史」の年表によれば、1961(昭和36)年4月3日に、浜大津瀬田線の認可が出たことになっていますが、実際には、8月7日付拙稿引用の、1952(昭和27)年3月17日の滋賀新聞の記事により、この日に浜大津発瀬田町行きが開通していたらしいことが分かります。
社史か、新聞か、どちらかが間違っているのか、今となっては調査が困難ですが、1961年以前の複数の新聞に、瀬田町行きの京阪バスの存在を示す記事が載っているため、少なくとも1961年以前に瀬田町行きの路線は存在していたと考えるのが妥当だと思われます。
これらの記事については、おいおい触れることにします。

あと、可能性は低いですが、「浜大津瀬田線」ということばが、昭和27年に開通した路線を指しているものではない、という考え方もあります。湖岸道路は昭和40年代に入って全通するため、この当時石山駅-浜大津間のバス路線というのは、今と同じ国道1号線経由と、(今となっては信じられませんが)旧東海道を通る路線に大きく分かれていたようです。昭和27年に開通する浜大津発瀬田町行きは国道経由であることが明記されているので、もしかしたら、社史の「浜大津瀬田線」は旧東海道経由なのかもしれない、と思うのですが、今のところ何とも分かりません。

近いうちに「瀬田町」のバス停がどの辺りにあったのか、現地調査も行いたいと思います。
序章を除く、本格的な記事について、何から始めようかと思っていましたが、ちょうど折から、いつもお世話になっている「京阪グループバス交流広場」にて、瀬田の話題が出たので、そこから始めてみたいと思います。

この日の滋賀新聞(のちの滋賀日日新聞)によると、同日より浜大津-瀬田間で京阪バスの運行が始まります。記事に「國道二号線経由」とあるのは、今の国道一号線経由のこと。この当時の一号線は東京から伊勢神宮まででした。この年の12月には、二号線が一号線に改まります。
記事の「近鉄バス」はもちろん、近畿日本鉄道の「近鉄」ではなく、近江鉄道の「近鉄」。この前日、3月16日付の同紙によれば、守山-石山間の定期バス路線を浜大津まで延長するとのことであり、京阪バスと近江鉄道が、お互いのエリアに食い込みながら、熾烈な競争を展開する長い時代の幕開けともいえましょう。

戦後に発行された多数の京阪バスの観光パンフレットの一般路線図に「瀬田町」として記載され、大津周辺の京阪バス路線として、現在の路線網と最も大きく違っていて目立つ部分の一つですが、バス停の位置など、謎も多く、1回や2回では書き切れませんので、今後も継続的に取り上げようと思います。

昭和27年3月17日付滋賀新聞

昭和27年3月16日付滋賀新聞