青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
大きな鉄道ジオラマがどこかにあるらしい、といううっすらした、微かに聞いた程度のほとんど思い出すこともない記憶が呼び覚まされたのは、つい最近の新聞やネットの記事で、それが平和堂近江八幡店だと分かり、10月16日、閉店当日に最初で最後の対面をしに行きました。

北海道には旅行に行ったくせに、実は近江八幡市というのは沖島は別にして行ったことがありません。近江八幡駅で降りたこともありません。テレビの旅行番組やパンフレットに出てくる八幡堀の美しい風景なんて一体どこにあるんだろう?と思うくらい。いつでも行けるところは案外行かないものです。

↓近江八幡店

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くたびれていますね。

既に3階、4階が閉鎖されているので、階段が怖い…。
[平和堂近江八幡店 鉄道ジオラマ]の続きを読む
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ちょうど60年前の明日、1957(昭和32)年1月9日付京都新聞滋賀版に掲載された、「落穂寮」の記事から。

S32.1.9KS 落穂寮b

「落穂寮」については、新浜 【石山外畑線・宇治交通石山線16‐1】でも取り上げましたが、現在の湖南市に移転するまでは、新浜バス停の南、畑や駐車場などがある辺りにあったようで、バス停名も「落穂寮前」だったらしいことが分かりました。

1998(平成10)年、学校教育法が改正され、記事中にある「精神薄弱」その他の用語はなくなりましたが、それより遥か前の時代であり、現在の目で見ると差別的と思われるような表現もありますが、私の主観が現在の感覚を代表するとは言えませんから原文を保ち、そのままにしております。「火の用心を呼びかけ××る」とある部分は、なぜ伏字になっているのか、何が伏せられているのかも分かりませんが、これもそのままにしています。写真だけは一部加工しました。
[落穂寮と国道422号線バイパス 60年の変化]の続きを読む
↓今からちょうど60年前の今日、1956(昭和31)年7月22日付読売新聞滋賀版の記事。

S31.7.22Y 外畑キャンプ場にバンガロー付プールb

外畑にキャンプ場?そんなものあったかな、と思って今ネットで調べても、もう何もヒットしません。昭和31年ですから、天ケ瀬ダム工事で水没する前の外畑のことで、今の外畑しか分からない私たちの世代ではどうにもこうにもイメージが湧きません。
年配の方なら、何か覚えていらっしゃるのでしょうか?

高校生の修学旅行には物足らない気がしますし、中学生の修学旅行も隣の京都市で、今だったら何で隣町に!と大ブーイングでしょうが、まあ当時はこんな感じなのでしょう。
丸いプールだったようですね。直径20mに200人? 円周率×半径の二乗で、面積は約1,256㎥、一人当たり換算6.28㎥、つまりほぼ2坪。1坪はだいたい畳2帖ですから、畳4帖分に1人と考えると、広いとは思えません。深さも現在の小学校の標準的なプールより浅くて、本当にお遊びでちゃぽちゃぽという感じだったのではないでしょうか。

宇治川汽船と読売新聞共催のキャンプ場にプールを作った、ということで、キャンプ場はもっと前からあるんですね。

↓このパンフレットは、匿名希望さんから見せて頂いたのですが、上の新聞とほぼ同じ時期に発行されたのだろうと思われます。
[外畑キャンプ場]の続きを読む
皆様、あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

昨年9月28日付拙稿琵琶湖大橋【京津国道線 番外/琵琶湖大橋50周年】にて、琵琶湖大橋の開通50周年を取り上げましたが、52年前の今日、架橋が決定した新年の特集記事を見つけました。

↓1963(昭和38)年1月1日付滋賀日日新聞

S38.1.1S 琵琶湖大橋開通記念特集b

当時はまだ「町」だった守山は、琵琶湖大橋の架橋による大発展を期待して、
「夢でない100万都市」
「県庁は守山に来ないといけない」

なんて、大風呂敷を広げたようなことを言っています。

守山市を悪いとか嫌いとかいうわけではありませんが、ちょっといくらなんでも…(笑)。
[守山 100万都市???]の続きを読む
石山駅以南、特に南郷、大石方面で朝にバスを利用される方は、ここ何日か、天気がいいのに異様にバスが遅れていることに気づかれていることでしょう。

ある日、南郷付近で、7:30頃には通過しているはずの京阪石山寺行きが石山駅行きの後ろに続いて7:40過ぎに走行しているのを見て、何か起きているのかな?と思って一応バス停に向かって小走りしたのですが、その時は、
「無理に乗らなくても、バスは遅れながら次々来るだろうから、乗れないなら乗れないでまあいいか」
と軽く考えて本気を出さなかったから、やっぱり間に合いませんでした。

しかし、その判断が間違っていたことにすぐ気づかされました…。
5分経っても、10分経ってもバスが来ない!名神が工事の時は、一般道に車が流れて、石山、南郷近辺でもいつもより車が多くなることはあるのですが、そんなことも聞いていないし、おかしいな…大きな事故?

結局日中並みに15分近くバスが来ない空白の時間帯が生じ、やっとぎゅうぎゅうのバスに乗り込んだ状態。

でも、唐橋前の踏切では目立った渋滞もなくて、「道路渋滞のため」という運転手さんのアナウンスも、無線の慌ただしさからするとウソではないのだろうけどピンと来ないし、「関津(せきのつ)の工事が…」「水道が…」などという断片的にしか聞こえない乗客の話し声も何のことか分からず、仕事に間に合うギリギリの電車にあたふたと乗り込んで、そのまますっかり忘れていました。

後になって、知人からの連絡で関津峠で下水道管が破裂して、道路に空洞ができて通行止めらしい、ということを知って、乗客の話の意味がやっと分かりました。

あんな細くて危ない道が通行止めになったからって、そんな渋滞なんて起きるものか?と思うのですが、大石から石山・瀬田に向かう車が全部国道422号線に集中すると、ただでさえ混みやすい洗堰の交差点が、混乱するようです。

↓昨年5月17日付拙稿新浜 【石山外畑線・宇治交通石山線16‐1】で使用した写真ですが、川の向こう、山に沿って家並みが少しずつ上っているところが関津峠です。

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[関津峠 通行止めの思わぬ影響]の続きを読む
前回に続き「石山平津町」です。

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前回取り上げた水汲み場近くからバイパスの向こうを見ると「水畝宮」という大きな看板が見えます。

京滋バイパスからはもっとよく見えるので、一体これは何なのだ?とちょっとした話題になっていますが、住宅地図を見ると、鳥居の記号があるので、神社なのでしょう。
「みずうねみや」「すいせぐう」?…読み方が分からないですね。

↓昔からここには「井上長石鉱山」があります。
[「石山平津町」の謎②]の続きを読む
「膳所」や「瀬田」は行政上の町名として存在しますが、「石山」はありません。石山駅前が住居表示制を施行する時に「石山○丁目」とまとめられてしまってもおかしくなかったのに、「松原町」「粟津町」などの細かい町名が残ったのは不思議ですが、運がよかったともいえるかもしれません。

代わりに「石山」のつく現行行政地名は「石山寺」「石山寺辺町」「石山千町」「石山南郷町」「石山外畑町」「石山内畑町」の6つで、このうち独自の郵便番号があるのは「石山南郷町」以外の5つです。石山学区、南郷学区の町名は全てもともと「石山○○町」でした。昭和8年に旧滋賀郡石山町が大津市と合併する時に、「石山」を冠したようで、全国的にもよくある住所の変更の仕方です。

一方で、地図や資料によっては、「石山平津町」という町名も出てきます。これは一体どこなのでしょう?

『角川日本地名大辞典 25滋賀県』(1979)には、「平津」とは別に「石山平津町」の項があって、
「〔世帯〕5〔人口〕7▷市の南部。ほとんどが山地。(中略)滋賀大学グラウンド裏に「左 いし山」がある」(P753)
とあります。
滋賀大のグラウンド裏なら、石山平津町ではなくてこの当時でも平津だったはずで、場所を特定する情報とは言えません。

上記は「地誌編」の記述で、これとは別に「地名編」というのがあって、そちらの「石山平津町」の項では、「昭和51年一部が現行の平津1~2丁目・南郷1~6丁目の一部となる」とあります(P99)。

一方同辞典の「南郷」の項は、直前の町名として、
「石山千町・石山南郷町・石山赤尾町・石山平津町の各一部」
を挙げており(P765)、「平津」は、
「石山平津町の一部」
としています(P767)。

つまり、住居表示制を施行する時に、その必要がなくて山間部に残存している「石山千町」「石山南郷町」などとともに、「石山平津町」も残存している、ということなのでしょう。しかし、昭文社の都市地図など、掲載がない地図も多く、謎の地名です。

ヤフー地図で検索すると、以下のような範囲とされています↓



(お使いのパソコン、スマホの環境により正しく表示されないことがあります)

ところがこれを、「石山平津町488番地」とすると、以下のようになります↓
[「石山平津町」の謎①]の続きを読む
ちょうど1年前の今日、台風でバスが動かない、というそうなかなかない事態が発生していました。

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崩れやすい新浜付近を含む2、4号経路ではなく、南郷中学校系統です。南中で運休というのは雪で坂を登れないような時にはそれこそ開通して間もない平成一ケタの頃から何度も聞いたことがありますし、交通事故で道路が塞がっていて、運転を打ち切らざるを得なくなったという異常事態も、私が乗っている時だけで2回も経験があるのですが、台風関係では私が知る限りほとんどないことだと思います。

しかし確かに、この状態では通るに通れません↓
[千町 災害復旧~~「よい星回りから離れて」]の続きを読む
拙ブログで何度か触れておりました、琵琶湖河川事務所の公式サイト内「B-BOX」に所収されております写真をUPする許可を頂きましたので、文中で触れた約20枚を紹介させて頂きたいと思います。

南郷洗堰【石山外畑線・宇交石山線13‐1】で私が言及したのはこの写真です。

「瀬田川洗堰竣工時の周辺の様子(A04009B00001)」より

A04009B00001C00004[1]

圧縮その他の加工は何もしていないのですが、残念ながらこれ以上大きくならないので、もっと大きいサイズでご覧になりたい方は、国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所の公式サイト内B-BOXをご覧下さい。他の写真についても、一部を除いてサイズは大きくなりませんのでご了承願います。

なお、立て看板の内容は、南郷洗堰【石山外畑線・宇交石山線13‐1】でも書きましたように、道路橋ではないから工事関係車両以外は原則通行禁止、やむを得ず通る時は最徐行、荷重は7トンまでなどという内容です。

↓浜大津行きがやってきました。

A04009B00001C00002[1]

南郷洗堰 【石山外畑線・宇交石山線13‐2】で私が言及したのは以下の写真です。

[B-BOXより]の続きを読む

大都市圏研究の多くは、通勤発生の要因を郊外住宅地の発達に求めて来た。近世から近代の「通い」と現代的なそれの違いは往来の量的差異であるが、それらの研究でも郊外住宅地の成立と通勤の量的拡大の因果関係を十分に実証してはいない。

三木理史「『通い』の成立」『都市交通の成立』P124 日本経済評論社 2010



三木氏は奈良大学教授、交通地理学の分野では有名で、この本、ちょっと専門的で難しいんですが、すごい面白いです。大阪の方なので関西を例に挙げて説明されているケースが多いので、私程度でもついていけます。

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(大阪歴史博物館にて 戦前の御堂筋線)

専業主婦や、自由業・自営業でない限り、私たちの多くが行っている「通う(通勤・通学する)」という行動がいつ、どのようにして、なぜ成立したのか、という問いは「交通とは何か」という根源の問いに準じて、交通を理解する上で、大切なことではないかと思います。三木氏はそこに注目しています。

「通う」必要があるから、通勤するし、通学するし、朝夕のラッシュも生まれるし、鉄道やバスの会社の経営が成り立つのです。

昨年8月2日付拙稿押し照る難波(なにわ)の市電とバスで「他の展示も興味深かったので、どこかのタイミングでもう一度取り上げます」と書いたまま放っていたので、その展示と絡めながら進めたいと思います。

特別に歴史に詳しくない私たちでも、よく考えると、江戸時代、或いはそれ以前に「通勤」「通学」というのはほとんどなかったであろうことは想像に難くありません。
日本人のほとんどを占めていて、私たちの大部分の先祖であったであろう農民は、定期的な市(湖東の「八日市」などという地名は正に市そのものを表していますね)は別にして、いわゆる「通勤」を毎日するようなことはありません。出作りをするケースもありますが、普通は近くの田畑に通う程度です。
職人や商人も、親方の家に住み込んで徒弟修業をして独立するのが普通でしょう。商人は行商することもありますが、それは「通勤」というのとは違います。

↓こんなふうに、家そのものがお店、というのがほぼ常識であったと考えられます。

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最近の子どもたちは「八百屋」と言ってイメージできるのでしょうかね…。天井の梁から下げたザルに釣銭が入っているなんて分からないだろうな。

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↓東大阪とは特に書いていなかったと思いますが、東大阪っぽい雰囲気ですね。

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[「通い」の成立と「大大阪市」]の続きを読む