青いバス停

There have been buses for more than 90 years in Otsu City. 「専攻?」である大津営業所管内の京阪バスの歴史を主体とした交通関係の記事をはじめ、雑記を記しております。
10月28日付拙稿関津峠 通行止めの思わぬ影響にて書かせて頂いた、大津市関津(せきのつ)-大石東間の「関津峠」について、大津市企業局公式HPにおいて、11月16日(日)9:00から通行止めが解除されるとの情報が掲載されました。

こんな小さな無名のブログで書いたところで、お知らせの役に立たないのはよく分かっているのですが、ホッとして、思わず普段は書かない臨時の記事を書いてしまいましたw
コメントを下さった、実際に困っていらっしゃるというじゅい様などの通勤の方々はじめ、南郷、大石方面の住民、バス運転手の方々(そして私)に、漸く平穏な朝が訪れることでしょう。
スポンサーサイト
本日よりブログ名を「青いバス停」に変更させて頂きます。
昨年4月26日付拙稿石山寺山門前【石山外畑線・宇交石山線6-2】でも書きましたが、「現在完了形」では文法的にやはりおかしいな、というのがずっと気になっていたので、思い切ってシンプルにしました。

テンプレートも変更しましたが、動作確認をして不具合がある場合は再度変更することがありますので、ご了承のほどお願い申し上げます。

内容や方向性には特に変更はありませんので、今後とも宜しくお願い致します。
25日付でUPしておりました、「石山-南郷間 路線バス90周年」の記事について、重大なミスがありましたのでご報告申し上げます。

「90年前の今日、1922(大正15)年1月25日、大石自動車商会に、石山(蛍谷)-南郷間の乗合自動車免許が与えられます」

と書きましたが、1922年は大正11年で、京阪バスの直系の桃山自動車商会が発足した創業年であります。
大石自動車商会への免許授与は翌年の1923(大正12)年であり、今年は90周年ではなく、89周年でした。

私が作成した年表でも、「1922(大正12)年」という誤った記載があり、これをうのみにして、原資料やいつも使っている年号対照表を十分確認していなかったことが原因です。

25日付の記事は、一旦公開を停止させて頂きます。また年表については、来月に新しい情報を付け加えて訂正し、公開致します。

とんでもない恥ずかしい失態を深くお詫び申し上げます。
終戦の日から1カ月経ちました。

先月、「終戦記念日」の原稿を書いた直後、録画してあったNHKの「週刊こどもニュース」(8月15日放送)を見ていたら、「お父さん」(岩本裕解説委員)が、

65年前の今日がどういう日だったのか、ていうのをね、おじいちゃんやおばあちゃんに直接聞いてみて、そしたらね、やっぱりね、こうだったんだよ、ああだったんだよと、一生懸命話してくれると思うんですよ

と話していました。もちろん、別に悪いことでも間違ったことでもないんですが、ただ、今の小学生の祖父母というと、60歳代でも全然おかしくなくて、ほとんど何も語れない、という可能性も十分あるだろうな、と思うのです。

しかし、すぐれた歌や物語は、時に生の体験と同じくらいの迫力で、ひとの心に迫ります。

私は時々、「お母さんの木」の歌を思い出します。
7人いる息子が出征する度に、「どうせなら柿や栗のように実が食べられる木にしたらいいのに」と周囲から言われながら、桐の木を1本ずつ植え、息子が無事に帰ってくることを祈る「おかあさん」を描いた、大川悦生作の物語です。これを、某年の滋賀大附属小学校児童が作詞、中井憲照・滋賀大音楽科教授が作曲した8曲でひとまとまりの合唱曲があり、小学校の頃、歌ったのです。
こういう、物語を歌にしたような「大作」の合唱にありがちな、仰々しさや、シュールさ、そういったものがなく、自然と心に沁み入ります。

ところが、小学校の時に使っていたざら半紙(最近、ざら半紙なんて聞かないし、見ないですね)の楽譜が、どうしても見つからなくて困っていたのです。
そんな折、音楽教室をされているkuboty様のブログじいくれふの部屋を見つけ、楽譜を頒布されていることを知りました。
早速問い合わせたところ、快く楽譜を分けて下さいました。歌の部分だけでなく、小学校の時はもらえなかったピアノ伴奏も入っていたので、1曲目の前奏を弾くと、あの頃の音そのままで、記憶がまざまざとよみがえりました。途中のセリフも記憶通りです。

秋がすぎて 戦争に負けた年の 寒い冬だった。
お母さんは すっかり弱ってしもうて
腰もまがり よぼよぼになってしもうた。
それでも ポツリ ポツリ 生き残った兵隊が帰ってくると
お母さんは もう 待ち切れんようになってしもうて
汽車がくるたんびに 雪の線路ばたに 出ていなさった。



この後、誰もが、そうあって欲しくないと願うような悲しい結末を迎えます。だからこそ、もうこんなことがあってはならない、と読者に強く感じさせる効果があるのでしょう。

しかし、その一方で、人間は、愚かで、残酷で、複雑な生き物です。
三橋敏雄という俳人は、広島の原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」ということばを下敷きにしたと思われる、

あやまちは くりかへします 秋の暮

という句を作って、世に衝撃を与えましたが、いい悪いはともかく、ある意味ゾッとするような、目を背けたい、人間の本質を言い当てているような気もするのです。

終戦の年の今日、9月15日、当時の文部省は、現在の教育基本法の礎となる、「新日本建設ノ教育ノ方針」を発表します。戦後日本の教育も、戦前とはまた違った様々な問題があって、一概によかったと言えるのかどうか分からないと思っていますが、少なくとも今のところ、三橋敏雄の予想に反して、核戦争のような大それた過ちは繰り返しておらず、その点では、教育はうまくいっているのかもしれません。繰り返さずに済むようにするのもまた、人間性なのかもしれません。

しかし最近、「お母さんの木」のような戦争文学の影が薄くなり、有名な「ちいちゃんのかげおくり」(あまんきみこ)も教科書から消えると聞いております。戦争文学が、どれほど「繰り返さない」力になっているのかは分かりませんが、生で戦争の体験を語れるひとが少なくなる一方で、すぐれた歌や物語すら取り上げられなくなると、いったいこの次どうなるのだろうか、と案じられます。そもそも、現時点で世界中全てが平和で、豊かで、という状況ではないというのに。

私なんかが「お母さんの木」をブログで取り上げたから、どうなるというものでもないと思いますが、芸術的にも優れた作品だと思うので、少しでも知って頂けたらと思って、いつもと雰囲気が違って申し訳ないですが、書かせて頂きました。

お母さんの木



お母さん お母さん やつれはてた その手
お母さん お母さん 長くつらい日々でした(第8曲より)
「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収集セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」

余りにも有名な玉音放送、すなわち終戦の詔勅の出だしです。京都新聞では号外として、1945(昭和20)年8月15日、詔勅全文を掲載していました。どちらかというと私は、テレビで聴いた「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」という後半の部分が印象に残っているのですが、いずれにしろ、この当時の日本人が、どんな思いでこの非常に難しいおことばを聴いたのだろう、と毎年この時期に考えさせられます。

この前日の14日の新聞は、どんな内容かな、と前から気になっていたので、路線バスの新聞調査の際に見てみたのですが、この期に及んでもというのか、この期に及んだからこそなのか、
「今ぞ皇國の神髄發揮 神州護持へ光榮の精進 最惡事態を切拓く一億の誠」(京都新聞)
などという見出しが躍っていて、胸が詰まりました。この日にはもう、御前会議でポツダム宣言の受諾が決まっていたのですから―――。
その一方で、8月14日にも15日にも、将棋の記事や、本の広告もあったりして、こんなときに招集もされずに将棋をやっていられるひとがいたんだ、本なんて売れるのかな、と不思議に思ったものです。

玉音放送を聴いて、「日本は負けたんだ」と誰かが叫んだら、その誰かを、周りにいたみんなが袋叩きにして殺してしまった、というような小説を10年くらい前に読んだ気がして、遠藤周作とか原民喜とか、可能性のありそうな作家の本を調べたのですが、分かりませんでした。
その一方で、井伏鱒二の『黒い雨』で主人公・閑間重松は、もともと全国民に対して、天皇陛下自らの放送であるから、正午には全員これを聴くように、という注意があったにもかかわらず、裏庭の溝を遡るウナギの幼魚を見ていたという記述が印象的です。何があってもなくても、(完全に破壊されない限り)自然の営みは変わらないということなのでしょうか。
周囲のひとも、放送の意味を取り違えていたり、何かを感じて静かに涙をこぼしていたり、混乱と困惑の中にあった様子です。涙をこぼす女子工員に、別の工員が、「これでもう空襲はないけんな」と慰めるのは、相手を慰めているのか、自分を安心させようと自分に言い聞かせているのか、その両方なのか…。いずれにしろ、あまり劇的な事が起きたというよりは、時に誤解もしながら、こうして徐々に静かに衝撃と悲嘆が走って行ったというのが多くの庶民の現実なのかなと思ったりします。

私が小さい時は戦後40年くらいで、まだそれなりの生々しさがあるのを、幼心にも感じたものですが、今年は65年目…。さすがに遠く感じます。でも、単に遠いというより、何かずっしりと肩に重荷がのしかかるような遠さで、親が戦後生まれである私でも、やっぱりまだ、この日を迎えると襟を正さないといけない気持ちになってしまうのです。


                ※           ※            ※

瀬田町の調査について、「京阪グループバス交流広場」に書かせて頂いておりますが、作成した略図がうまくアップできないので、また別途掲載させて頂きます。